日本書紀|第十五代 応神天皇⑫|呉の工女・立太子・崩御

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呉の縫工女と、百済の新斎都媛の来朝

応神37年 丙寅(ひのえのとら) 306

二月一日 阿知使主あちのおみ と都加使主つかのおみ とをくれ に遣わして、縫工女きぬぬいめ を求めさせました。

阿知使主らは、まず、高麗国こまのくに に渡り、そこから呉に行こうと考えました。高麗に渡りましたが、そこから呉までの道順が判らなかったので、高麗で道の判る者を雇いました。高麗王は久禮波くれは と久禮志くれし の二人を副えて道案内としたので、無事に呉に着くことができました。

そこで呉王は、工女ぬいめ の兄媛えひめ ・弟媛おとひめ ・呉織くれはとり ・穴織あなはとり の四人の婦女を与えました。

応神39年 戊辰(つちのえのたつ) 308

二月 百済の直支王ときおう が、妹の新齊都媛しせつひめ を遣わせて、お仕えさせました。この時、七人の婦女を連れて来朝しました。

 原 文

卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二人爲導者、由是得通吳。吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。

卅九年春二月、百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。爰新齊都媛、率七婦女而來歸焉。

 ひとことメモ

高麗を経由

このように、高麗を経由してといいますか、高麗に助けてもらって、中国の呉(江南地方)へ行くことが出来ました。ですから、高麗と倭国は、決定的に敵対していたわけではなかったんだろうと想像できます。

4人の工女

これは、機織りの最新技術を中国から輸入したという事象を表したものだといわれています。

 

応神天皇、皇太子を決める

応神40年 己巳(つちのとのみ) 309

正月二十四日 天皇は、大山守命おおやまもりのみこと大鷦鷯尊おおさざきのみことの二人を呼んで、

「お前たち、子供を愛おしく思うか?」

とお尋ねになられた。二人は、

「はい。大変愛おしく思います。」

と答えました。

また、

「年長と年少だと、どちらがより愛おしいか?」

とお尋ねになられました。

大山守命おおやまもりのみことは、

「年長です。」

と答えました。すると、天皇は喜ばないような顔色をされました。

この時、大鷦鷯尊おおさざきのみことは、天皇の顔色から察知して、

「年長は、多くの年月を経て、すでに成人になっていますので、今更心配はいりません。ただ、年少の者は、まだ成人していません。だから、年少の子はとてもいじらしく思います。」

と答えました。

これを聞かれて、天皇は大変お喜びになり、

「お前の答えと朕の思いとは同じだ。」

とおっしゃいました。

この時、天皇は、常に菟道稚郎子うぢのわきいらつこ を皇太子に立てようと思われていました。しかし、二人の皇子の気持ちを知りたかったので、このような質問をしたのでした。

しかし、二人の皇子の気持ちを知りたいと思われて、このような質問をされたのです。だから、大山守命おおやまもりのみことの答えを喜ばれなかったのです。

同月二十四日 菟道稚郎子を立てて日嗣とされました。そしてその日に、大山守命おおやまもりのみことには山川林野を掌らせ、大鷦鷯尊おおさざきのみことには、皇太子の補佐として、国事くにのこと を治めさせました。

 原 文

卌年春正月辛丑朔戊申、天皇召大山守命・大鷦鷯尊、問之曰「汝等者、愛子耶。」對言「甚愛也。」亦問之「長與少、孰尤焉。」大山守命對言「不逮于長子。」於是天皇、有不悅之色、時大鷦鷯尊、預察天皇之色、以對言「長者、多經寒暑、既爲成人、更無悒矣。唯少子者、未知其成不。是以、少子甚憐之。」天皇大悅曰「汝言寔合朕之心。」

是時天皇、常有立菟道稚郎子爲太子之情、然欲知二皇子之意、故發是問。是以、不悅大山守命之對言也。甲子、立菟道稚郎子爲嗣、卽日、任大山守命令掌山川林野、以大鷦鷯尊爲太子輔之、令知國事。

 ひとことメモ

皇位継承のルール

大王家の相続は、第一子が国家祭祀を担当し、第二子が政治を行う(天皇となる)というルールがあったという説があり、その説によると、国家祭祀の方が、天皇よりも権威が高かったとも。

そして、大王家の勢力範囲が拡大するにつれて、国家祭祀よりも天皇の方が権威が高くなり、そのルールが崩れて、やがて忘れられてしまいます。その過渡期が、応神天皇から始まる数代なんだといいます。

そのルールがまだ概念として存在していたであろう応神天皇の御代、第一子は額田大中彦皇子ゆかたのおおなかひこのおうじで、第二子は大山守命おおやまもりのみことです。ですからルール上では大山守命おおやまもりのみこと太子ひつぎのみことなるはずなのです。少なくとも本人はそう思っていたことでしょう。

大鷦鷯尊の思惑

応神天皇が菟道稚郎子うぢのわきいらつこ を太子とした理由は定かではないですが、少なくとも大鷦鷯尊おおさざきのみこととしては、のちのちを考えた時、ルール通りに大山守命おおやまもりのみことが太子になるよりも、ルールから逸脱した菟道稚郎子うぢのわきいらつこ が太子になる方が都合がよいと考えたと、私は感じました。

実際、太子の補佐として国事を治める地位を得ました。後世の摂政の地位です。

さらに、大山守命おおやまもりのみことと、菟道稚郎子うぢのわきいらつことの間に争いの種が生じました。

大鷦鷯尊おおさざきのみことは、二人が争えば、その混乱に乗じて自分が皇位を継承できるのではないかと考えたような気がします。

天皇の様子を窺って答えを出したという所など、ずる賢さが透けて見えてません?

 

 

応神天皇の崩御

応神41年 庚午(かのえのうま) 310

二月十五日 天皇は明宮あきらのみや で崩御されました。享年110歳でした。

ある話では、大隅宮おほすみのみや で崩御された、といいます。

この月 阿知使主あちのおみ らが呉から筑紫に帰ってきました。

胸形大神むなかたのおほかみ が工女ぬひめ(ぬひめ)らを望まれたので、兄媛を胸形大神に奉りました。これが今の筑紫国の御使君みつかひのきみ(みつかひのきみ)の祖です。

やがて、三人の婦女を連れて津国つのくに(つのくに)に到着し、武庫むこ(むこ)に至りましたが、天皇の崩御に間に合いませんでした。

そこで、女人たちを大鷦鷯尊に献上しました。この女人らの子孫が、今の呉衣縫くれのきぬぬひ(くれのきぬぬひ)・蚊屋衣縫かやのきぬぬひ(かやのきぬぬひ)です。

 原 文

卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮、時年一百一十歲。一云、崩于大隅宮。是月、阿知使主等自吳至筑紫、時胸形大神有乞工女等、故以兄媛奉於胸形大神、是則今在筑紫國御使君之祖也。既而率其三婦女、以至津國及于武庫而天皇崩之、不及。卽獻于大鷦鷯尊、是女人等之後、今吳衣縫・蚊屋衣縫是也。

 ひとことメモ

明宮

応神天皇の崩御の地は、明宮だそうです。橿原市大軽町の春日神社境内に、軽島豊明宮跡の石碑が立ちます。

神話的な逸話に彩られた、河内王朝の始祖とも、現皇室の祖神ではないかとも言われる応神天皇の崩御が、とてもあっさりと記述されていること、そして、続けて、何事も無かったかのように、呉の工女が大鷦鷯尊に献上されたという一節が記述されていることに、少しビックリします。

津国(つのくに)

津国は、後に設置されることとなる摂津国のことを指します。難波津・住吉津・武庫津など、大きな港がたくさんあったから津の国と呼ばれたようです。

この当時はまだ河内国の一部です。

 

日本書紀巻第十  完

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