日本書紀|第十五代 応神天皇②|応神天皇の后と皇子たち
后妃と皇子・皇女
応神元年(270年)
正月一日 応神天皇が即位されました。是年は太歳は庚寅でした。
応神2年(271年)
三月三日 仲姫を皇后とされました。
皇后は、
- 荒田皇女
- 大鷦鷯天皇
- 根鳥皇子
をお生みになりました。
仲姫よりも前に、仲姫の姉の高城入姫 を妃としていて、
- 額田大中彦皇子
- 大山守皇子
- 去挟眞稚皇子
- 大原皇女
- 澇挟田皇女
が生まれておいででした。
次の妃は、皇后の妹の弟姫 。
- 阿倍皇女
- 淡路御原皇女
- 紀之菟野皇女
をお生みになりました。
次の妃は、和珥臣 の祖の日觸使主 の娘の宮主宅媛 。
- 菟道稚郎子皇子
- 矢田皇女
- 雌鳥皇女
をお生みになりました。
次の妃は、宅媛の妹の小甂(をなべひめ)。
- 菟道稚郎姫皇女
をお生みになりました。
次の妃は、河派仲彦(かはまたなかつひこ)の娘の弟媛(おとひめ)。
- 稚野毛二派皇子
をお生みになりました。
次の妃は、櫻井田部連男鉏 の妹の糸媛。
- 隼總別皇子
をお生みになりました。
次の妃は、日向泉長媛 。
- 大葉枝皇子
- 小葉枝皇子
をお生みになりました。
このように、天皇の皇子と皇女は合わせて二十王でした。
根鳥皇子は大田君 の始祖で、大山守皇子は土形君 と榛原君 の二族のすべての始祖で、
去挟眞稚皇子 は 深河別 の始祖です。
原 文
二年春三月庚戌朔壬子、立仲姬爲皇后、后生荒田皇女・大鷦鷯天皇・根鳥皇子。先是、天皇以皇后姉高城入姬爲妃、生額田大中彥皇子・大山守皇子・去來眞稚皇子・大原皇女・澇來田皇女。又妃皇后弟々姬、生阿倍皇女・淡路御原皇女・紀之菟野皇女。次妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛、生菟道稚郎子皇子・矢田皇女・雌鳥皇女。次妃宅媛之弟小甂小甂、此云烏儺謎媛、生菟道稚郎姬皇女。次妃河派仲彥女弟媛、生稚野毛二派皇子。派、此云摩多。次妃櫻井田部連男鉏之妹糸媛、生隼總別皇子。次妃日向泉長媛、生大葉枝皇子・小葉枝皇子。凡是天皇、男女幷廿王也。根鳥皇子、是大田君之始祖也。大山守皇子、是土形君・榛原君、凡二族之始祖也。去來眞稚皇子、是深河別之始祖也。
一云「初天皇爲太子、行于越國、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。攝政六十九年夏四月、皇太后崩。時年百歲。 |
ひとことメモ
皇后の仲姫よりも前に、別の妃がいた
順番からいうと、高城入姫を娶り、その次に仲姫を娶ったということです。ところが最初の妃は皇后にはならなかった。それは高城入姫の子は天皇にならなかったから。
皇后とは、天皇に即位した子を生んだ妃に与えられた称号と理解していいと思います。
天皇家の世継ぎルール
神武天皇から始まる大王家の皇位継承者を見ていくと、おおむね次男が継いでいます。長男が継ぐことはほとんどありません。末子でもないです。明文化されているわけではないですが、そうなってます。
そして、長男には子供がおりません。これは、国家運営においてもっとも重要な「祭祀」を司る重責を、長男が負ったからだと、祭祀を司る聖人だから妻を娶ることがなかった。よって長男には子供の系譜が無いのだと、鳥越先生は推察しています。(例外はありますよ。)
となれば、本来の皇位継承者は最初の妃の次男である「大山守皇子」であったはず。ところが応神天皇は今までの慣習を無視して菟道稚郎子皇子を太子としました。
思い返せば、仲哀天皇の次男は「忍熊皇子」です。本来なら皇位を継ぐべき人でした。なのに、神功皇后が勝手に誉田別尊を太子にしてしまったので、それを不服として反乱を起こしました。
このあと、同じようなことが起こります。
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