日本書紀|第十五代 応神天皇④|葛野を見れば・漢人池の造営

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葛野を見れば、、、

応神6年 乙未(きのとのひつじ) 275

二月 天皇が近江国に御幸されて、菟道野うぢの の上にいらっしゃり詠まれた歌、

ちばの かづのをみれば ももちだる やにはもみゆ くにのほもみゆ

千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ

葛野を見ると、たくさんの満ち足りた家並みが見える。国の秀でたところが見えるようだ。

 原 文

六年春二月、天皇幸近江國、至菟道野上而歌之曰、

知麼能 伽豆怒塢彌例麼 茂々智儾蘆 夜珥波母彌喩 區珥能朋母彌喩

 ひとことメモ

国見

京都の宇治の高台(宇治上神社あたりか?)から、京都盆地の西側一帯を見渡した様子です。いわゆる国見というやつです。

民の暮らしが豊かな様子を見て、「よしよし。いい感じだ。」と満足そうにうなずく様子が想像できますね。

聖帝と称された仁徳天皇を、聖帝と呼ばしめた善政のきっかけとなる、あの有名な国見、

「民の家から飯を炊く煙が出ていない。それほど困窮しているのか。即刻、税を免除せよ!」

を思い出させるシーンです。

 

漢人池の造営

応神7年 丙申(ひのえのさる) 276

九月 高麗人・百済人・任那人・新羅人が、そろって来朝しました。そこで、武内宿禰に命じて、この韓人を率いて池を造らせました。これを韓人池からひとのいけ といいます。

応神8年 丁酉(ひのとのとり) 277

三月 百済人が来朝しました。

百済記に、、、

「阿花王(あかおう)が即位したが、貴国(かしこきくに:日本)に対して礼を欠いた。その為に、日本に我国の枕彌多禮とむたれ、及び峴南けんなん ・支侵ししむ ・谷那こくな の東韓の地を奪われた。このため、王子の直支とき を天朝に人質として差し出して、先王の友好関係に修復した。」

と記されています。

 原 文

七年秋九月、高麗人・百濟人・任那人・新羅人、並來朝。時命武內宿禰、領諸韓人等作池、因以、名池號韓人池。

八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」

 ひとことメモ

韓人池

韓人池は、奈良県磯城郡田原本町の唐古からこかぎ遺跡の中にある「唐古池からこいけ」に比定されています。

古事記には韓人池の記述はなく、新羅人に造らせた「百済池くだらいけ」(奈良県北葛城郡広陵町)の記述があります。

いずれにしても、この頃、大陸の灌漑土木技術を導入して、水田開墾や用水施設を進めていったことが伺えます。

そう考えると、「造らせた」ではなく、本当は「造ってもらった」なのかもしれませんね。

 

倭国に割譲された地域

  • 枕彌多禮とむたれ ・・・済州島とのこと
  • 峴南けんなん ・・・忠清南道大徳郡鎮岑面あたり
  • 支侵ししむ ・・・全羅南道南原郡山東面あたり
  • 谷那こくな ・・・全羅南道谷城郡谷城面あたり

だそうです。

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