日本書紀|第十五代 応神天皇⑤|甘美内宿禰と武内宿禰の探湯(くかたち)

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甘美内宿禰による武内宿禰への讒言

応神9年 戊戌(つちのえのいぬ) 278

・四月 武内宿禰たけうちのすくね を筑紫に遣わして、人民の状況を視察させました。

その時、武内宿禰たけうちのすくね の弟の甘美内宿禰うましうちのすくね が、兄を排除しようと思い、天皇にウソを言って、

武内宿禰たけうちのすくねは常に天下を望む野心を持っています。今聞くところによると、筑紫にて密かに計画を練り『一人で筑紫を分割して、三韓を招いて従わせて、ついには天下を手にしよう。』と言っているらしいです。」

と申し上げると、天皇はすぐに遣いを出して、武内宿禰たけうちのすくねを誅刹しようとしました。

武内宿禰たけうちのすくねは嘆き悲しみ、

「もとより私には二心なく、忠心をもって我が君にお仕えして参りました。今なんの禍で、罪も無いのに死ぬことになるのでしょうか。」

と言いました。

この時、壹伎直いきのあたひ の祖の眞根子まねこ という者がいました。彼の容姿は武内宿禰とそっくりでした。武内宿禰たけうちのすくねが罪もなくのに虚しくも死ぬることを惜しんで、武内宿禰たけうちのすくね

「今、大臣は忠心を以って大君に仕えておいで、悪い心など無いことは、天下が知るところです。どうか、秘かにこの難を避けて、朝廷に参内して、罪の無いことを弁明して、そのあとで死んでも遅くはないでしょう。さらには時の人は、『私と大臣は姿かたちが似ている』と言います。よって、私が大臣の代わりに死んで、大臣の真心を明かにしましょう。」

と言って、剣に伏して自決しました。

 原 文

九年夏四月、遣武內宿禰於筑紫、以監察百姓。時武內宿禰弟、甘美內宿禰、欲廢兄、卽讒言于天皇「武內宿禰、常有望天下之情。今聞、在筑紫而密謀之曰『獨裂筑紫、招三韓令朝於己、遂將有天下。』」於是天皇則遣使、以令殺武內宿禰、時武內宿禰歎之曰「吾元無貳心、以忠事君。今何禍矣、無罪而死耶。」於是、有壹伎直祖眞根子者、其爲人能似武內宿禰之形、獨惜武內宿禰無罪而空死、便語武內宿禰曰「今大臣以忠事君、既無黑心、天下共知。願密避之、參赴于朝、親辨無罪、而後死不晩也。且時人毎云、僕形似大臣。故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心。」則伏劒自死焉。

 ひとことメモ

壹伎直いきのあたひ の祖の眞根子まねこ が、武内宿禰たけうちのすくねと姿かたちが似ているから「私が身代わりになり死にます。」と。

こうなると、眞根子まねこにしたら武内宿禰はもうすでに「神様」の域に達していますね。

この記事を読んで「実は武内宿禰は、壱岐を中心とする海神人族が奉斎する神だったのかもしれないな~」と感じました。

 

武内宿禰と甘美内宿禰の探湯(くかたち)

武内宿禰はひとり大いに悲しんで、密かに筑紫から海路を南海から回り、紀水門(きのみなと)に泊まり、なんとか朝廷に参内することができ、罪の無いことを訴えました。

天皇は武内宿禰と甘美内宿禰の双方に尋問しましたが、二人はそれぞれが潔白を主張し、真偽の決定は困難でした。そこで、天皇は勅して天神地祗に願い、探湯くかたち をすることにしました。

そんなことで、武内宿禰と甘美内宿禰はともに、磯城川の畔に出て探湯くかたち をしました。結果、武内宿禰が勝ったので、刀を取り甘美内宿禰を殺そうとしたました。天皇は勅して甘美内宿禰を許されて、紀直らの祖に(奴隷として)お与えになりました。

 原 文

時武內宿禰、獨大悲之、竊避筑紫浮海以從南海之、泊於紀水門、僅得逮朝、乃辨無罪。天皇則推問武內宿禰與甘美內宿禰、於是二人各堅執而爭之、是非難決。天皇勅之令請神祇探湯、是以、武內宿禰與甘美內宿禰、共出于磯城川湄、爲探湯。武內宿禰勝之、便執横刀、以毆仆甘美內宿禰、遂欲殺矣。天皇勅之令釋、仍賜紀伊直等之祖也。

 ひとことメモ

紀水門

和歌山市、紀の川の河口にあった大きな港です。

武内宿禰は、見つからないように、瀬戸内ではなく高知沖・徳島沖を通って、紀伊水道を北上し、紀ノ川河口までたどり着きました。

ここをガッチリを押えている紀伊国造家は、武内宿禰とは身内同然の間柄。なおかつ、朝廷との関係も深い家柄。

朝廷へ参内できるよう取り成してもくれたことでしょう。

探湯(くかたち)

盟神探湯と書いて「くかたち」と読ませる方が一般的かもしれません。古代の日本で行われていた裁判の方法の一つです。

読んで字の如く、神に誓ってから、湯を探ります。

  • まずは、神に自分の潔白を誓います。
  • そして、探湯瓮くかへ という釜に手を突っ込みます。
  • もちろんそこには、グラグラと沸騰した湯が、、、
  • 火傷をしなかった者は正しく、火傷をした者は罪

ちょっと誓約に似てますねが、ある意味、拷問ですな。

 

剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池

応神11年(280年)

十月 剣池つるぎのいけ ・輕池かるのいけ ・ 鹿垣池かのかきのいけ ・ 厩坂池 うまやさかのいけを造りました。

 

 原 文

十一年冬十月、作劒池・輕池・鹿垣池・厩坂池。

 ひとことメモ

四つの池の場所

  1. 剣池つるぎのいけ ・・・橿原市石川町の「石川池」に比定。
  2. 輕池かるのいけ ・・・橿原市大軽町にあった池。剣池が軽池だという説もあり。
  3. 鹿垣池かのかきのいけ ・・・不明
  4. 厩坂池うまやさかのいけ ・・・不明だが、前述の厩坂道の近くか?

1と2、おそらく3も、橿原市の石川町から大軽町にかけての地域にあったようです。ですので、鹿垣池もそのあたりのような気がします。

ちなみに、グーグルアースを見ていると、大軽町の丸山古墳と植山古墳の間に、細長い農地を確認することが出来ます。不自然に、そこだけが農地として残っています。そして、その農地の中ほどの「畝傍東幼稚園うねびひがしようちえん」の横に池も見えます。

もしかしたら、この細長い農地は、かつて池だったのかもしれません。想像です。

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