甘美内宿禰による武内宿禰への讒言
応神9年 戊戌(つちのえのいぬ) 278
・四月 武内宿禰 を筑紫に遣わして、人民の状況を視察させました。
その時、武内宿禰 の弟の甘美内宿禰 が、兄を排除しようと思い、天皇にウソを言って、
「武内宿禰は常に天下を望む野心を持っています。今聞くところによると、筑紫にて密かに計画を練り『一人で筑紫を分割して、三韓を招いて従わせて、ついには天下を手にしよう。』と言っているらしいです。」
と申し上げると、天皇はすぐに遣いを出して、武内宿禰を誅刹しようとしました。
武内宿禰は嘆き悲しみ、
「もとより私には二心なく、忠心をもって我が君にお仕えして参りました。今なんの禍で、罪も無いのに死ぬことになるのでしょうか。」
と言いました。
この時、壹伎直 の祖の眞根子 という者がいました。彼の容姿は武内宿禰とそっくりでした。武内宿禰が罪もなくのに虚しくも死ぬることを惜しんで、武内宿禰に
「今、大臣は忠心を以って大君に仕えておいで、悪い心など無いことは、天下が知るところです。どうか、秘かにこの難を避けて、朝廷に参内して、罪の無いことを弁明して、そのあとで死んでも遅くはないでしょう。さらには時の人は、『私と大臣は姿かたちが似ている』と言います。よって、私が大臣の代わりに死んで、大臣の真心を明かにしましょう。」
と言って、剣に伏して自決しました。
原 文
九年夏四月、遣武內宿禰於筑紫、以監察百姓。時武內宿禰弟、甘美內宿禰、欲廢兄、卽讒言于天皇「武內宿禰、常有望天下之情。今聞、在筑紫而密謀之曰『獨裂筑紫、招三韓令朝於己、遂將有天下。』」於是天皇則遣使、以令殺武內宿禰、時武內宿禰歎之曰「吾元無貳心、以忠事君。今何禍矣、無罪而死耶。」於是、有壹伎直祖眞根子者、其爲人能似武內宿禰之形、獨惜武內宿禰無罪而空死、便語武內宿禰曰「今大臣以忠事君、既無黑心、天下共知。願密避之、參赴于朝、親辨無罪、而後死不晩也。且時人毎云、僕形似大臣。故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心。」則伏劒自死焉。 |
ひとことメモ
壹伎直 の祖の眞根子 が、武内宿禰と姿かたちが似ているから「私が身代わりになり死にます。」と。
こうなると、眞根子にしたら武内宿禰はもうすでに「神様」の域に達していますね。
この記事を読んで「実は武内宿禰は、壱岐を中心とする海神人族が奉斎する神だったのかもしれないな~」と感じました。
武内宿禰と甘美内宿禰の探湯(くかたち)
武内宿禰はひとり大いに悲しんで、密かに筑紫から海路を南海から回り、紀水門(きのみなと)に泊まり、なんとか朝廷に参内することができ、罪の無いことを訴えました。
天皇は武内宿禰と甘美内宿禰の双方に尋問しましたが、二人はそれぞれが潔白を主張し、真偽の決定は困難でした。そこで、天皇は勅して天神地祗に願い、探湯 をすることにしました。
そんなことで、武内宿禰と甘美内宿禰はともに、磯城川の畔に出て探湯 をしました。結果、武内宿禰が勝ったので、刀を取り甘美内宿禰を殺そうとしたました。天皇は勅して甘美内宿禰を許されて、紀直らの祖に(奴隷として)お与えになりました。
原 文
時武內宿禰、獨大悲之、竊避筑紫浮海以從南海之、泊於紀水門、僅得逮朝、乃辨無罪。天皇則推問武內宿禰與甘美內宿禰、於是二人各堅執而爭之、是非難決。天皇勅之令請神祇探湯、是以、武內宿禰與甘美內宿禰、共出于磯城川湄、爲探湯。武內宿禰勝之、便執横刀、以毆仆甘美內宿禰、遂欲殺矣。天皇勅之令釋、仍賜紀伊直等之祖也。 |
ひとことメモ
紀水門
和歌山市、紀の川の河口にあった大きな港です。
武内宿禰は、見つからないように、瀬戸内ではなく高知沖・徳島沖を通って、紀伊水道を北上し、紀ノ川河口までたどり着きました。
ここをガッチリを押えている紀伊国造家は、武内宿禰とは身内同然の間柄。なおかつ、朝廷との関係も深い家柄。
朝廷へ参内できるよう取り成してもくれたことでしょう。
探湯(くかたち)
盟神探湯と書いて「くかたち」と読ませる方が一般的かもしれません。古代の日本で行われていた裁判の方法の一つです。
読んで字の如く、神に誓ってから、湯を探ります。
- まずは、神に自分の潔白を誓います。
- そして、探湯瓮 という釜に手を突っ込みます。
- もちろんそこには、グラグラと沸騰した湯が、、、
- 火傷をしなかった者は正しく、火傷をした者は罪
ちょっと誓約に似てますねが、ある意味、拷問ですな。
剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池
応神11年(280年)
十月 剣池 ・輕池 ・ 鹿垣池 ・ 厩坂池 を造りました。
原 文
十一年冬十月、作劒池・輕池・鹿垣池・厩坂池。 |
ひとことメモ
四つの池の場所
- 剣池 ・・・橿原市石川町の「石川池」に比定。
- 輕池 ・・・橿原市大軽町にあった池。剣池が軽池だという説もあり。
- 鹿垣池 ・・・不明
- 厩坂池 ・・・不明だが、前述の厩坂道の近くか?
1と2、おそらく3も、橿原市の石川町から大軽町にかけての地域にあったようです。ですので、鹿垣池もそのあたりのような気がします。
ちなみに、グーグルアースを見ていると、大軽町の丸山古墳と植山古墳の間に、細長い農地を確認することが出来ます。不自然に、そこだけが農地として残っています。そして、その農地の中ほどの「畝傍東幼稚園」の横に池も見えます。
もしかしたら、この細長い農地は、かつて池だったのかもしれません。想像です。
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