日本書紀|第十五代 応神天皇⑥|髪長媛を息子に譲る・鹿子の謂れ

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日向の髪長媛

この年(応神11年(280年)、ある人が奏上して

日向国ひむかのくに に、髪長媛かみながひめ という名の乙女がおりまして、諸縣君牛諸井もろがたのきみ うしもろゐ の娘で、国中で一番美しい人なのです。」

と申し上げました。天皇は喜ばれて、お召しになろうと思われました。

応神13年 壬寅(みずのえのとら) 282

三月 天皇は特別に専任の使者を出して髪長媛を召されました。

九月中旬 髪長媛が日向からやってきたので、桑津邑(くわつのむら)に住まわされました。ここに皇子の大鷦鷯尊(後の仁德天皇)が髪長媛をご覧になり、その美しさにすっかり惹かれて、恋心を抱かれました。

天皇は大鷦鷯尊の恋心をお知りになり、二人を結婚させようと思いました。そこで、天皇は後宮で宴席を設けられた時、髪長媛を呼んで座らせ、さらに大鷦鷯尊を手招きして呼び寄せて、髪長媛を指さして詠まれた歌。

いざあぎ のにひるつみに ひるつみに わがゆくみちに かぐはし はなたちばな しづえらは ひとみなとり ほつえは とりゐがらし みつぐりの なかつえの ふほごもり あかれるをとめ いざさかばえな

いざ吾君 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香ぐはし 花橘 下枝らは 人皆取り 上枝は 鳥居枯らし 三栗の 中枝の ふほごもり 赤れる乙女 いざさかばえな

さあ我が君よ、野に蒜を摘みに行きましょう。蒜摘みに行く我が道には、いい香りの花橘が咲いています。下の枝の花は人が皆取ってしまい、上の枝の花は鳥が散らしてしまいました。しかし中の枝にふっくらふくらんだ赤い蕾のような乙女がいますよ。さあ開花させて輝かせなさい

大鷦鷯尊は、御歌を頂戴して、髪長媛を得ることができることを知って大変喜んで、返歌でお答えしました

みづたまる よさみのいけに ぬなはくり はへけくしらに ゐぐひつく かはまたえの ひしがらの さしけくしらに わがこころし いやうこにして

水溜まる 依網池に 蓴くり 延へけく知らに 堰杭築く 川俣江の 菱茎の さしけく知らに 我が心し いや愚にして

依網池で蓴菜(じゅんさい)と取ろうとして手を伸ばしているのを知らずに、また川俣江の菱茎が遠くまで伸びていることを知らないでいたとは、私の心は何とも愚か者でした

実は、大鷦鷯尊と髮長媛とは、既に交わっていて懇ろになっていて、髮長媛とだけの時に詠まれた歌は、

みちのしり こはだをとめを かみのごと きこえしかど あひまくらまく

道の後 こはだ乙女を 神の如 聞こえしかど 相枕枕く

遠い国の こはだの乙女の美しさは、神のようだと評判だったが、今は共寝する仲となったんだなあ

また、詠まれた歌

みちのしり こはだをとめ あらそはず ねしくをしぞ うるはしみもふ

道の後 古波陀乙女 争はず 寝しくをしぞ 麗しみ思ふ

遠い国の こはだの乙女は、抵抗することも無く、寝してくれた 愛おしく思うよ

 原 文

是歲、有人奏之曰「日向國有孃子、名髮長媛、卽諸縣君牛諸井之女也、是國色之秀者。」天皇悅之、心裏欲覓。

十三年春三月、天皇遣專使、以徵髮長媛。秋九月中、髮長媛、至自日向、便安置於桑津邑。爰皇子大鷦鷯尊、及見髮長媛、感其形之美麗、常有戀情。於是天皇、知大鷦鷯尊感髮長媛而欲配。是以、天皇宴于後宮之日、始喚髮長媛、因以、上坐於宴席、時撝大鷦鷯尊、以指髮長媛、乃歌之曰、

伊奘阿藝 怒珥比蘆菟湄珥 比蘆菟瀰珥 和餓喩區瀰智珥 伽遇破志 波那多智麼那 辭豆曳羅波 比等未那等利 保菟曳波 等利委餓羅辭 瀰菟遇利能 那伽菟曳能 府保語茂利 阿伽例蘆塢等咩 伊奘佐伽麼曳那

於是、大鷦鷯尊、蒙御歌、便知得賜髮長媛而大悅之、報歌曰、

瀰豆多摩蘆 豫佐瀰能伊戒珥 奴那波區利 破陪鶏區辭羅珥 委遇比菟區 伽破摩多曳能 比辭餓羅能 佐辭鶏區辭羅珥 阿餓許居呂辭 伊夜于古珥辭氐

大鷦鷯尊、與髮長媛既得交慇懃、獨對髮長媛歌之曰、

彌知能之利 古破儾塢等綿塢 伽未能語等 枳虛曳之介逎 阿比摩區羅摩區

又歌之曰、

瀰知能之利 古波儾塢等綿 阿羅素破儒 泥辭區塢之敘 于蘆波辭彌茂布

 ひとことメモ

日向の諸縣

日向の諸縣は、宮崎県の東諸県郡国富町にあった地名で、諸県君の本拠があった場所とされます。

南九州は、かつての熊襲の勢力範囲です。ここの姫を娶ることは、大和朝廷の南九州地方統治にとって、とても重要なことだったのかもしれません。

ある部族の首長の娘を娶るということは、その部族を配下に治めるに等しいですから。

 

桑津邑

大阪市東住吉区桑津に、かつて桑津環濠集落がありました。その東の端にあった金蓮寺が、髪長媛が住まわれた宮址だったといいます。

しかし、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の中で、金蓮寺は廃寺となってしまいました。残念です。かつての宮址にあった祠は、桑津天神の境内に遷座されています。

依網池(よさみいけ)

崇神天皇の御代に造られたとも、垂仁天皇の御代ともいわれる依網池は、大阪メトロ御堂筋線の「あびこ」あたりから「北花田」あたりでにまたがる巨大な池だったそうです。

今、大依羅神社が鎮座する場所が、池の畔だったのかな?と想像してます。

川俣江

大和川は、奈良県から生駒山地と金剛山地の境目を抜けて大阪府へ出てきて石川と合流します。

古代の大和川は、そこから進路を北へと向きを変えて、3つの大きな流れに分かれていました。今の、平野川・長瀬川・玉串川です。

そして、長瀬川と玉串川の間にもう一本、細い流れがありました。それが楠根川です。その楠根川が河内湖に流れ込む入り江が川俣江だと思われます。

歌の背景

大鷦鷯尊は、まさか応神天皇が髮長媛を自分に譲ってくれるとは思いもよらず、秘かに寝取っていたんですね。ですから、「私は愚か者でした」と白状したのです。悪い子ですな。

 

 

播磨の鹿子水門

ある話では、、、

日向の諸縣君牛もろがたのきみ うし は、朝廷に仕えて久しく年老いて、もうお仕えすることが出来なくなりました。そこで朝廷を去り国元に退去し、自分の娘の髪長媛を献上しました。

(日向を出て)はじめに播磨に到着しました。ちょうどその時、天皇が淡路嶋に行かれて狩をされていました。

天皇が西の方をご覧になると、数十頭の大鹿が海を浮かび来て、播磨の鹿子水門かこのみなと に入りました。

天皇は側近に

「あの大鹿は何だ。海に浮かんで沢山来るではないか。」

尋ねられました。側近もそれを見て怪しみ、すぐに使いを遣わして調べさせました。使いの者が見てみると、なんと、皆、人でした。角がついた鹿の皮の服を着ていたのです。

「何者か」

と問うと、

「諸縣君牛です。今年、老齢により辞職したとはいえども、天皇のことを忘れることが出来ませんでした。ですので、自分の娘の髪長媛を貢上に参った次第です。」

と申し上げました。

天皇は喜び、すぐに呼び寄せて御船に乗せました。

時の人は、その岸に着いたところを鹿子水門かこのみなと と名付け、水手ふなこ のことを鹿子かこ というのは、これが始まりです。

と伝わります。

 原 文

一云、日向諸縣君牛、仕于朝庭、年既耆耈之不能仕。仍致仕退於本土、則貢上己女髮長媛。始至播磨、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。於是天皇西望之、數十麋鹿、浮海來之、便入于播磨鹿子水門。天皇謂左右曰「其何麋鹿也、泛巨海多來。」爰左右共視而奇、則遣使令察、使者至見、皆人也、唯以著角鹿皮爲衣服耳。問曰「誰人也。」對曰「諸縣君牛、是年耆之、雖致仕、不得忘朝。故以己女髮長媛而貢上矣。」天皇悅之、卽喚令從御船。是以、時人號其著岸之處曰鹿子水門也。凡水手曰鹿子、蓋始起于是時也。

 ひとことメモ

鹿の皮を着る

古代では鹿の皮がよく用いられたようです。軽く・柔らかく・水をはじくという特性を持ち、雨除けや防寒に最適だったとのこと。

 

鹿子水門

岡山大学の研究によると、鹿子水門は、現在の加古川市加古町稲屋あたりだそうです。

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