日本書紀|第十五代 応神天皇⑦|弓月君と秦氏・阿直伎と王仁

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弓月君の民たちが足止めを食う

応神14年(283年)

二月 百済王が縫衣工女きぬぬいのおみな を献上しました。名を眞毛津まけつ といいます。今の狭目衣縫くめのきぬぬひ の始祖です。

この年、百済より弓月君ゆつきのきみ が帰化して、奏上して、

「私めは、自国の人夫を百二十縣ももあまりはたちのこほり  、率いて帰化しました。しかし、新羅人が邪魔をして、皆は加羅国からのくに に留められています。」

と申し上げました。そこで葛城襲津彦かづらきのそつひこ を遣わして、弓月の人夫を加羅に引き取りに行きました。しかし、三年経っても襲津彦は帰ってきませんでした。

 原 文

十四年春二月、百濟王貢縫衣工女、曰眞毛津、是今來目衣縫之始祖也。是歲、弓月君自百濟來歸、因以奏之曰「臣、領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。」爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅。然、經三年而襲津彥不來焉。

 ひとことメモ

弓月君

弓月君が登場しました。この人がたくさんの民を日本に連れてきます。それらの人々が大陸の先進技術を日本にもたらします。秦氏です

秦氏の出自について、新撰姓氏録には「左京諸蕃 漢 太秦公 宿禰 秦始皇帝三世孫孝武王の後也」とあります。孝武王の孫が融通王で、すなわち弓月君だとか。秦の始皇帝の子孫であれば、ものすごいハクがつきますね。どこへ行ってもエラそうに出来ます。

一方で、弓月国という国が中央アジアにあり、ここから百済を経て日本に渡来したのだといいます。中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 イリ・カザフ自治州 グルジャ市に、「弓月城」という場所があります。そのあたりが弓月国と思われます。

日ユ同祖説によると、、、

弓月の氏族は「失われた10部族」の中のガド族・ルベン族・マナセ族らしいです。イスラエルからクリミア半島を経て中央アジアのグルジャにやってきたのですが、中国に支配されてからは万里長城建設の苦役に従事させられ、百済・日本へと逃げてきたといいます。

 

阿直伎と王仁

応神15年(284年)

八月六日 百済王が阿直伎あちき を遣わして、良馬二匹を献上しました。これらを軽の坂上の厩で飼いました。そして阿直伎を馬飼に任命しました。その為、その馬を飼った所を厩坂うまやさか と呼びました。

阿直伎は経典を読むことができたので、太子ひつぎのみこ(ひつぎのみこ)の菟道稚郎子 うぢのわきいらつこの師としました。

天皇は阿直伎に

「あなに勝る博士(=学者)はいるか?」

とお尋ねになると、

王仁わに という者がおります。優れております。」

とお答えした。

というわけで、上毛野君かみつけののきみ の祖の 荒田別あらたわけ と 巫別かむなきわけ を百済に遣わして、王仁を呼び寄せました。

阿直伎は阿直伎史あちきのふびと の始祖です。

 原 文

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。

 ひとことメモ

王仁は、中国から百済に来た人らしいです。

 

大勢の弓月の民が帰化する

応神16年(285年)

二月 百済より王仁わに が来朝しました。皇太子の菟道稚郎子の師となり、太子は王仁から諸々の経典を習いました。王仁は、いわゆる書首ふみのおびと らの始祖です。

是歳 百済王の阿花王あくえおう が無くなりました。そこで、天皇は直支王ときおう を呼ばれて、

「お前は、国に戻り、王位を継ぎなさい。」

とおっしゃられ、さらに東韓とうかん の地を与えて遣わしました。東韓とは甘羅城かんらのさし ・高難城こうなんのさし ・爾林城にりんのさし です

八月 天皇は、平群木菟宿禰へぐりのつくすのすくね と的戸田宿禰いくはのとだのすくね を加羅に派遣しました。そして精鋭部隊を授けて、詔して、

襲津彦そつひこ が久しく帰ってこないのは、新羅が邪魔をして滞留させされているに違いない。お前たちは、速やかに行って新羅を討ち、その道を開け。」

とおっしゃいました・

それで、木菟宿禰つくすのくすねらが、精鋭部隊を進軍させ、新羅との国境で対峙しました。すると、新羅王は恐れてその罪に服しました。そこで、弓月の人夫を率いて、襲津彦と共に来日しました。

 原 文

十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也。八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵詔之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。

 ひとことメモ

平群木菟宿禰(へぐりのつくすのすくね)

平群木菟宿禰は、武内宿禰の子とされます。襲津彥も武内宿禰の子とされていますから、平群木菟宿禰と襲津彥は兄弟ということになりますね。

的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)

古事記によると、的氏(いくはうじ)は葛城長江曾都毘古の子孫とされていますから、的戸田宿禰もその系譜の中の一人となりましょうか。襲津彥の子か孫あたりでしょう。

東韓の各地

よくわかってないのですが、

  • 甘羅城(かんらのさし)・・・金泉市あたり
  • 高難城(こうなんのさし)・・・全北鎮安郡鎮安面あたり
  • 爾林城(にりんのさし)・・・全羅北道任実郡あたり

だと、推定する記事がありました。

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