日本書紀|第十五代 応神天皇⑧|吉野の国樔人・東漢氏の渡来
国樔人が、朝廷に産物を献上するときの習わし、、、
応神19年 戊申(つちのえのさる) 288
十月一日 吉野宮 に御幸されました。この時、国樔人 が来て、醴酒(こざけ)を献上して歌を詠いました。
かしのふに よくすをつくり よくすに かめるおほみき うまらに きこしもちをせ まろがち 檮の生に 横臼を作り 横臼に 醸める大御酒 うらまに 聞こし持ち食せ まろが父 樫の生える林で 横臼を作り、その横臼で 作った御酒を、おいしくお召し上がりください。我等の父(天皇)よ |
歌い終わってから、すぐに口を打って、上を向いて笑いました。
今でも、国樔の人が土地の産物を献上するとき、歌が終わってすぐに、口を打って上を向いて笑うのは、思うに上古からの習わしのようです。
国樔の民の人となりは、すごく淳朴で、山の木の実を食べ、また蝦蟆 を煮ておいしく料理し食べました。これを毛濔 といいます。
その土地は、京 の東南の、山を隔てた吉野河の川上にありました。峰が嶮しく谷深く、道は狭く険しいので、京から遠くはないとはいえども、来朝は希でした。
しかし、これ以降は、しばしば産物を献上するために来朝しました。その産物とは、栗・菌(=きのこ)・年魚 の類です。
原 文
十九年冬十月戊戌朔、幸吉野宮。時國樔人來朝之、因以醴酒獻于天皇而歌之曰、
伽辭能輔珥 豫區周塢菟區利 豫區周珥 伽綿蘆淤朋瀰枳 宇摩羅珥 枳虛之茂知塢勢 磨呂俄智 歌之既訖、則打口以仰咲。今國樔、獻土毛之日、歌訖卽擊口仰咲者、蓋上古之遣則也。夫國樔者、其爲人甚淳朴也、毎取山菓食、亦煮蝦蟆爲上味、名曰毛瀰。其土、自京東南之、隔山而居于吉野河上、峯嶮谷深、道路狹巘。故雖不遠於京、本希朝來、然自此之後、屢參赴以獻土毛。其土毛者、栗・菌及年魚之類焉。 |
ひとことメモ
国樔人
神武軍が、菟田穿邑でエウカシを討伐したあと、吉野へ行幸されたときに、岩を押し分けて出てきた尾のある人、それが国樔 の祖先である飫時和句 でした。
「尾がある人」ですので、天孫族から見ると異民族。すなわち吉野の原住民です。でも、神武軍に逆らわなかったので土蜘蛛と呼ぶことはありません。
国栖奏
吉野の浄見原神社には、その時の所作を盛り込んだ「国栖奏」の神事が残っています。
神前には、山菓(栗)・醴酒・腹赤の魚・土毛(セリ)・毛濔(ヤマアカガエル)の5品が供えられ、歌、舞踏が奉納されたあと、
檮の生に 横臼を作り 横臼に 醸める大御酒 うらまに 聞こし持ち食せ まろが父 を詠い、口に手をあててのけぞってから礼拝する、 |
というものです。
阿知使主・都加使主の帰化
応神20年 己酉(つちのとのとり) 289
・九月 倭漢直 の祖の阿知使主 とその子の都加使主 が一族郎党十七縣を引き連れて来朝しました。
原 文
廿年秋九月、倭漢直祖阿知使主・其子都加使主、並率己之黨類十七縣而來歸焉。 |
ひとことメモ
倭漢 は 東漢 とも書き、後漢の皇帝「霊帝」の後裔を称する渡来系氏族です。
まるで中国系氏族のように聞こえますが、その実態は朝鮮半島南部からの渡来集団と考えられており、漢 の由来を任那の「安耶国(安羅・阿那)」に求める説もありますし、機織技術に優れていたからではないかという説もあります。
東漢 は、飛鳥の檜前を本拠として、一大勢力を張りました。かつてそこには、東漢氏の中心氏族「檜前氏」の氏寺「檜前寺」があり、飛鳥寺や法隆寺西院に匹敵する大きな寺院だったとこのと。渡来系氏族としては秦氏に並ぶ勢いだったそうです。
今、その跡に於御阿志神社があり、東漢氏の祖である阿知使主とその妻が祀られています。
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