日本書紀|第十五代 応神天皇⑨|兄媛の里帰り・天皇、吉備へ

スポンサーリンク

兄媛の里帰り

応神22年 辛亥(かのとのゐ) 291

三月五日 難波に御幸され、大隅宮おほすみのみや に滞在しました。

三月十四日 高台に登って遠くを望むと、妃の兄媛えひめ が西の方を見て大きく嘆きました。兄媛は吉備臣の祖の御友別みともわけ の妹である。

そこで、天皇が、

「何をそんなに歎いているのだ?」

と尋ねると、

「近頃、父母が恋しいのです。だから、西の方を見ると悲しくなるんです。暫く実家に帰って親孝行をさせていただけませんでしょうか。」

と答えたので、天皇は兄媛の親を想う篤い心を愛おしく思い、

「そうよのう。両親と会うこともなく、長い年月を過ごしてしまった。戻って親孝行をしたいという、その道理は明らかなり。」

とおっしゃり、その願いをすぐに聞き入れて、淡路御原の海人を八十人を水手かこ として呼び寄せ、吉備に送りました。

四月 兄媛は大津から出航して行かれました。

その時、天皇は高台にいて、兄媛の船をご覧になられた時に詠まれた歌は、

あはぢしま いやふたならび あづきしま いやふたならび よろしきしましま だかたされあらちし きびなるいもを あひみつるもの

淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び よろしき島々 誰かた去あらちし 吉備なる妹を 相見つめもの

それ、あのように、淡路島と小豆島は二つ並んでいる。お似合いの島々だ。(なのに私は一人) 私の相手は誰が去らせてしまったのか。吉備の妹と愛し合っていたのに

 原 文

廿二年春三月甲申朔戊子、天皇幸難波、居於大隅宮。丁酉、登高臺而遠望、時妃兄媛侍之、望西以大歎。兄媛者、吉備臣祖御友別之妹也。於是、天皇問兄媛曰「何爾歎之甚也。」對曰「近日、妾有戀父母之情。便因西望而自歎矣。冀暫還之得省親歟。」爰天皇愛兄媛篤温凊之情、則謂之曰「爾不視二親、既經多年。還欲定省、於理灼然。」則聽之、仍喚淡路御原之海人八十人爲水手、送于吉備。夏四月、兄媛自大津發船而往之。天皇居高臺、望兄媛之船以歌曰、

阿波旎辭摩 異椰敷多那羅弭 阿豆枳辭摩 異椰敷多那羅弭 豫呂辭枳辭摩之魔 儾伽多佐例阿羅智之 吉備那流伊慕塢 阿比瀰菟流慕能

 ひとことメモ

大隅宮(おほすみのみや)

大隅宮おおすみのみやの場所は明確ではありませんが、一般的に候補地とされているのは大阪市東淀川区大桐の大隅神社です。

神社のご由緒に、

当社の氏地は、もとの大隅島、すなわち上中島にあたり、(中略)、、、応神天皇22年春三月、難波の地にみゆきたまい、この大隅島に離宮を営んで、、、(略)

とあります。

御友別

兄媛えひめのお兄さんである吉備の御友別みともわけは、「日本三代実録」によると、吉備武彦の子だそうです。

この吉備武彦は、崇神天皇の御代に吉備津彦命とともに吉備国を平定した稚武彦命の孫で、稚武彦命は第7代孝霊天皇の皇子です。

 

吉備国の葦守宮

九月六日 淡路嶋で狩りをされました。

この嶋は海に横たわっていて、難波の西にあり、峰は巌しく入り乱れていて、丘や谷が続いています。芳しい草がよく繁り、高い波が音を立てて流れています。

また、この嶋は、大鹿・鴨・雁が多くいるので、しばしば乗輿に乗って遊びにいかれていました。天皇は淡路から回って吉備に御幸され、小豆嶋あづきしま で遊ばれました。

同月十日 葉田の葦守宮あしもりのみや に移られた時、御友別みともわけ が参上して、兄弟子孫を膳夫かしはで として食事を奉りました。

天皇は、御友別みともわけが心から畏まって仕える様子を見て嬉しくなり、吉備国を分割して御友別みともわけの子らにお与えになりました。

すなわち、川嶋縣かわしまのあがたを長子の稲速別いなはやわけ に与えました。これが下道臣しもつみちのおみ の始祖です。

次に、上道縣かみつみちのあがたを中子の仲彦なかつひこ に与えました。これが上道臣かみつみちのおみ ・香屋臣かやのおみ の始祖です。

次に、三野縣みののあがた弟彦おとひこ に与えました、これが三野臣みののおみ の始祖です。

また、波區藝縣はくぎのあがた を御友別の弟の鴨別かもわけ に与えました。これが笠臣かさのおみ の始祖です。

同じく、苑縣そののあがたを兄の浦凝別うらこりわけ に与えました。これが苑臣そののおみ の始祖です。

同じく、織部はとりべ を兄媛にお与えになりました。

これらの子孫が今も吉備国にいるのは、これが由縁です。

 原 文

秋九月辛巳朔丙戌、天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海、在難波之西、峯巖紛錯、陵谷相續、芳草薈蔚、長瀾潺湲。亦麋鹿・鳧・鴈、多在其嶋、故乘輿屢遊之。天皇便自淡路轉、以幸吉備、遊于小豆嶋。庚寅、亦移居於葉田葉田、此云簸娜葦守宮、時御友別參赴之、則以其兄弟子孫爲膳夫而奉饗焉。天皇於是、看御友別謹惶侍奉之狀而有悅情、因以割吉備國封其子等也。則分川嶋縣封長子稻速別、是下道臣之始祖也。次以上道縣封中子仲彥、是上道臣・香屋臣之始祖也。次以三野縣封弟彥、是三野臣之始祖也。復以波區藝縣封御友別弟鴨別、是笠臣之始祖也。卽以苑縣封兄浦凝別、是苑臣之始祖也。卽以織部賜兄媛、是以、其子孫於今在于吉備國、是其緣也

 ひとことメモ

葦守宮

葉田の葦守宮は、岡山県岡山市北区下足守にある葦守八幡宮あたりとされています。鳥居脇に「葉田葦守宮阯石碑」が立ってます。

授けられた5縣

不詳ではありますが、ネット情報などから以下の通り推定しました。

  • 川嶋縣・・・旧下道郡から真備町を除きました。
  • 上道縣・・・旧上道郡としました。
  • 三野縣・・・旧御野郡としました。
  • 波區藝縣・・・岡山県笠岡市あたりとの説が有力か。
  • 苑縣・・・真備町あたりとしました。

スポンサーリンク