日本書紀|第十七代 履中天皇②|住吉仲皇子の反乱
逃げる太子
仲皇子は有事を畏れて、太子を暗殺しよう思い、密かに兵を起こして太子の宮を包囲しました。
平群木莵宿禰・物部大前宿禰・漢直の祖の阿知使主の三人が、太子にお知らせしましたが、太子はお信じになりませんでした。
ある話では、太子は酒に酔って、起きられなかったと伝わります。
そこで、三人は、太子を助けて、馬にお乗せして逃げました。
ある話では、大前宿禰が太子を抱えて馬にお乗せしたと伝わります。
仲皇子は太子が居られないとは知らずに、太子の宮に火を掛けました。その火は夜通し燃えました。
太子は、河内国の埴生坂で、やっと目を覚まされました。太子は、難波の方を顧みて、その火の光に大変驚かれました。
飛鳥山口の少女
そこで、急いで大坂から倭に向かわれましたが、その途中の飛鳥山の山口で、少女にお会いになりました。
「この山に人がいたか?」
とお尋ねになると、
「兵士が山中に満ちています。當摩径に回って行かれるといいですよ」
と教えてくれました。
太子は、少女の言葉を聞いて、この難局を逃れることができると思われて、詠まれた歌
おほさかに あふやをとめを みちとへば ただにはのらず たぎまちをのる 大坂に 遭ふや乙女を 道問へば 直に告らず 當摩径を 告る 大坂で 出会った乙女に道を尋ねると、近道を告げず、回り道の當岐麻道を告げたぞ |
そこで、引き返して、そこの県の兵を集めて、龍田山から越えようとされました。
原 文
爰仲皇子畏有事、將殺太子、密興兵圍太子宮。時、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主、三人啓於太子、太子不信。一云、太子醉以不起。故、三人扶太子、令乘馬而逃之。一云、大前宿禰、抱太子而乘馬。仲皇子、不知太子不在而焚太子宮、通夜火不滅。太子、到河內國埴生坂而醒之、顧望難波、見火光而大驚、則急馳之、自大坂向倭、至于飛鳥山遇少女於山口、問之曰「此山有人乎。」對曰「執兵者多滿山中、宜自當摩徑踰之。」太子於是以爲、聆少女言而得免難、則歌之曰、
於朋佐箇珥 阿布夜烏等謎烏 瀰知度沛麼 哆駄珥破能邏孺 哆摩知烏能流 則更還之、發當縣兵令從身、自龍田山踰之 |
ひとことメモ
埴生坂
丹比の東に埴生という地名が残っています。このあたりで埴輪を作る土が取れたから埴生だとか。
埴生坂とは、古代の幹道「竹内街道」が羽曳野丘陵を越えるときの上り坂でしょうから、伊賀3丁目の坂道が埴生坂ではないかと思います。
大坂
今の大阪のことではないです。「大坂越」の道で倭に入ろうとしたということです。
一般的には、田尻峠を越える「長尾街道」の通称が「大坂越」と言われていますが、それよりも北を通るルートの関屋越え、南を通るルートの太子道も、大坂越のルートだったと思われます。
いずれも、穴虫峠を通過します。ですから、穴虫峠一帯に、兵士が充満していたのでしょう。
當摩径
當摩径は、竹内峠を越える道のことだと言われています。大坂越南ルートの太子道よりも、さらに南を通るルートです。少女はこちらを勧めました。
この道が後世に拡張され、竹内街道となったと考えられます。大道にしたのは蘇我馬子だろうと考えられていて、道沿いには、蘇我氏と関係が深い敏達・用明・推古各天皇や、こちらも蘇我氏の血をひく厩戸皇子の陵墓が築造されています。
しかし、石上神宮へ行くには、かなりの遠回りとなります。
龍田山越え
で、結局は、龍田山を越えようとしたとのこと。
龍田山とは、大和川の浅瀬「亀の瀬」の北の山。龍田大社の風神が降臨したという奥座峯があります。
しかし、
- 「越えようとした」で「越えた」ではない点
- あとで登場する「攪食の栗林」を通るルートではない点
- 古事記では龍田山ルートは記述されていないという点
などから、龍田道を通ろうとしたが、結局は當摩径を通ることになったんだろうと想像します。
避難経路想像図
難波宮から脱出した後に通過するポイントは埴生坂。ですから、大道を南下して大泉緑地の角を東へ曲がって竹内道を通り丹比の埴生坂へ向かったのでしょう。
次のポイントは飛鳥山の山口です。今の飛鳥戸神社が鎮座するあたりと想像しました。それは、竹内道上にあり、かつ大坂越(太子道ルート)と當麻道との分岐点だからです。
そこから龍田越えを選択しました。(理解しにくいですが)
ですので石川沿いを北上して龍田の山中に入ったと想像します。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません