日本書紀|第十七代 履中天皇③|浜子軍と吾子籠軍を退ける

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阿曇連浜子軍が追ってきた

(龍田山を越えようとしていた)その時、数十人で武器を持って追いかけてくる者たちがありました。

太子はそれを遠望して、

「あれは何者か、何のために急いでいるのだ。もしや賊ではないか?」

とおっしゃいました。

そこで、山中に隠れて彼らを待ち、相手が近づたところで、人を遣わして

「誰だ。何処へ行くのだ。」

と尋ねさせた。

彼らは、

「淡路の野嶋にじまの海人で、阿曇連浜子あづみのむらじ はまこ ある話では、阿曇連黒友あづみのむらじ くろとも(あづみのむらじ くろとも)と云う の命令で、仲皇子なかつみこのために太子を追っているのだ」

と答えたので、伏兵を出して、ことごとく捕らえました。

 原 文

時有數十人執兵追來、太子遠望之曰「其彼來者誰人也、何步行急之、若賊人乎。」因隱山中而待之、近則遣一人問曰「曷人。且何處往矣。」對曰「淡路野嶋之海人也、阿曇連濱子一云阿曇連黑友。爲仲皇子、令追太子。」於是、出伏兵圍之、悉得捕。

 ひとことメモ

阿曇連濱子

阿曇連の祖は、大濱宿禰おおはまのすくね。応神天皇3年に各地の海人の騒ぎを収めた功績により、海人を統括する判造となった人。浜子はまこは、その大濱宿禰おおはまのすくねの子孫でしょう。

このように、阿曇族は、応神天皇に認められて以降、中央政権にも参画するようになった思われます。すなわち、仁徳天皇の御代においては体制側の氏族だったということです。

何故、体制側の人が反乱に手を貸したのでしょうか。

野嶋の海人

襲ってきたのは、その浜子の命令を受けた野嶋の海人です。

野嶋は淡路島の北西部にあります。阪神淡路大地震のときに地表に現れた「野島断層」で一躍有名になりましたね。

ちなみに、住吉仲皇子の住吉も海人族の名称です。阿曇族も海人。野嶋の海人。

この3者が繋がりました。

 

倭直吾子籠の軍勢が待ち伏せ

仲皇子なかつみこと親しかった倭直吾子籠やまとのあたい あごこは、今回の謀略をあらかじめ知っていて、精兵数百人を密かに攪食かきはみの栗林に集めて、仲皇子なかつみこのために太子を捕らえようとしていました。

太子は兵が伏せているのも知らずに、山から出て、数里ほど進まれると、多くの兵士が道を塞いで、進めなくなりました。

そこで、使いを出して、

「誰だ」

と問うと、

倭直吾子籠やまとのあたい あごこだ」

と答えました。そして使者に

「誰の遣いだ」

と、問い返しました。

「皇太子の遣いだ」

と答えました。

吾子籠あごこは、多くの兵を恐れて、咄嗟に、

「皇太子が大変なことになっていると、お聞きしたので、皇太子をお助けする為に兵を準備してお待ちしていましたのです。」

と答えました。

しかし、太子はその心を疑って殺そうとされたので、吾子籠あごこはおそれて、妹の日之媛ひのひめを献上して、死罪の許しを請い、死を免れました。倭直らが釆女うねめを差し出すのは、この時から始まったようです。

 原 文

當是時、倭直吾子籠、素好仲皇子、預知其謀、密聚精兵數百於攪食栗林、爲仲皇子將拒太子。時太子、不知兵塞而出山行數里、兵衆多塞、不得進行。

乃遣使者、問曰「誰人也。」對曰「倭直吾子籠也。」便還問使者曰「誰使焉。」曰「皇太子之使。」時吾子籠、憚其軍衆多在、乃謂使者曰「傳聞、皇太子有非常之事。將助以備兵待之。」然太子疑其心欲殺、則吾子籠愕之、獻己妹日之媛、仍請赦死罪。乃免之、其倭直等貢采女、蓋始于此時歟。

 ひとことメモ

倭直吾子籠

倭直吾子籠やまとのあたい あごこは、仁徳天皇紀に登場した人。

仁徳天皇紀の冒頭に、額田大中彦皇子(応神天皇の第一子)が倭の屯倉・屯田を支配しようとした時、倭直吾子籠やまとのあたい あごこがわざわざ朝鮮半島から帰国して「倭の屯倉・屯田は時の天皇だけが支配できる土地である」という詔が発せられていることを証言しました。

吾子籠あごこを朝鮮半島から戻すために、仁徳天皇が野嶋の海人達を水手かことして派遣したとも記載されています。

このように、倭直吾子籠やまとのあたい あごこも、仁徳天皇の御代においては、間違いなく体制側ですね。

さて、住吉・阿曇・野嶋に加えて、倭国造までもが、野嶋海人をキーにして繋がりました。

 

攪食

葛城市のホームぺージによると、大和志を引用する形で、以下のような解説がありました。

葛城市にはじかみという大字があり、栗坪という小字があったそうです。このはじかみが、日本書紀の攪食かきはみが転訛したものではないかといわれています。同じく栗坪は、栗林と関係しているのではないかとも。

今の忍海駅の東南、御所役の北東に位置します。

釆女を差し出す

そんな倭直吾子籠やまとのあたい あごこは、死罪を許してもらうために釆女を差し出したとのことですが、釆女を差し出すなんて、これ死罪に代わるとうな罰でしょうか。

釆女を差し出すとは、要するに自分の姉妹もしくは娘を天皇の身の回りの世話をするために侍らせることですから、臣下なら進んで行っていたことと思われます。幸運にも、天皇の手が付いて子供でも生むようなことがあれば、罰どころか、逆に手柄ですもんね。

ということは、結局のところ吾子籠は何の罰も受けなかったと言えます。いやそれどころか、逆に太子に近づいたことになりません?

避難経路想像図(後半)

龍田道に入ったところで、野嶋の海賊が追いかけてくるのが見えました。今の金山彦神社が鎮座するあたりの高台まで登ったのでしょう。そこからだと下界がよく見えます。

さて、そこから引き返して石川沿いを南下し、結局は當麻道に入ったのだと思われます。引き返したとは書かれていませんが、次のポイントが攪食かきはみの栗林で、大坂越ではなく、かつ、攪食かきはみの近くを通るルートとなれば當麻道しかないからです。

當麻道から横大路を走り、途中で吾子籠軍に出くわしましたが、無事に上ツ道を北上して石上神宮へ。

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