日本書紀|第十七代 履中天皇⑤|即位、宮、皇妃と子供たち
即位と宮
履中元年 庚子 400
二月一日 皇太子は、磐余稚櫻宮で即位されました。
四月十七日 阿曇連浜子を召し出し、詔して、
「お前は仲皇子と共に反逆を企て、国家を傾かせようとした。これは死罪に値する。がしかし、大恩を垂れて入れ墨の刑とする」
その日に、目の縁に入れ墨が入れられました。そこで、時の人は、これを阿曇目といいました。また、浜子の部下の野嶋の海人らも罪を許されて、倭の蒋代屯倉で労役を科せられることとなりました。
原 文
元年春二月壬午朔、皇太子卽位於磐余稚櫻宮。
夏四月辛巳朔丁酉、召阿雲連濱子、詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」卽日黥之、因此、時人曰阿曇目。亦、免從濱子野嶋海人等之罪、役於倭蔣代屯倉。 |
ひとことメモ
磐余稚櫻宮
奈良県桜井市大字池之内字宮地に稚桜神社があり、そこが磐余稚櫻宮の伝承地となっていますが確証はないようです。
入れ墨の刑
死罪に値する罪を、入れ墨の刑に減刑したとのことですが、そもそも目の縁に入れ墨を入れるのは、九州地方の部族にとっては風俗的なもので、皆が当たり前にしていたことです。
神武東征に、戦闘部隊の長として従った大久米命も、目の縁に入れ墨を入れていましたし。
となれば、なんと、阿曇連浜子も、実は罪に問われなかったとうことになります。
野嶋海人が労役を
同じく捕らえられた野嶋海人は、屯田で労役を科せられたとのことですが、これも言い換えると倭国造の下で屯田で働く役目が公式に与えられたようなもの。
とても、罰を受けたというようなものではなさそうです。
結局は、倭直吾子籠、阿曇連浜子、野嶋の海人の誰もが、大した罪には問われなかったということになります。
これには、すごく違和感を覚えます。
皇妃と皇子・皇女
七月四日 葦田宿禰の娘の黒媛を皇妃とされ、
- 磐坂市辺押羽皇子
- 御馬皇子
- 青海皇女 一説には、飯豊皇女
を生みました。
また、妃の幡梭皇女は
- 中磯皇女
を生みました。
この年の太歳は庚子でした。
原 文
元年春二月壬午朔、皇太子卽位於磐余稚櫻宮。
夏四月辛巳朔丁酉、召阿雲連濱子、詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」卽日黥之、因此、時人曰阿曇目。亦、免從濱子野嶋海人等之罪、役於倭蔣代屯倉。 秋七月己酉朔壬子、立葦田宿禰之女黑媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女。一日、飯豐皇女。次妃幡梭皇女、生中磯皇女。是年也、太歲庚子。 |
ひとことメモ
黒媛を皇妃に立てる
黒媛を皇后とは呼ばずに、”皇妃” と呼んでいます。これは、彼女の子が誰も天皇にならなかったからなんだろうかと思いましたが、黒媛が亡くなったあとに妃となった香幡梭皇女は、”皇后” と紹介されていますので。
ここだけの誤記かと思いましたが、黒媛に関しては ”皇妃” で統一されているようです。
葦田宿禰
葦田宿禰は、葛城襲津彦の子です。ですから、仁徳天皇の皇后だった磐之媛の弟の娘が黒媛です。黒媛が「葛城黒媛」ともいわれるのはそのためです。
葛城一族の大王家外戚の地位は続きます。
ちなみに、住吉仲皇子の反乱の原因となった黒媛は 羽田矢代宿禰 の娘でしたので、皇妃となった黒媛とは同一人物ではないということになります。少なくとも現時点ではそうなります。
葛城一族の陰謀
住吉仲皇子は仁徳天皇の第二皇子(第二皇子後継説)ですし、阿曇一族・倭国造家といった仁徳の体制側の氏族が味方していることから、本当は住吉仲皇子が皇太子になったのでは?と思っています。
そうだとするならば、これに異を唱える者が。そうです。葛城一族です。
住吉仲皇子は、先帝の臣下であった新興勢力の阿曇一族、倭国造家と深いつながりを持っていました。一方、葛城一族とは一線を画していたのではないでしょうか。
このままでは、葛城一族はまたもや没落していく、、、という危機感をつのらせた葛城の葦田宿禰は、皇太子を亡きものにして、第一皇子の去来穂別皇子を皇位につけようと考えた。 そして、クーデターが成功し、自分の娘の黒媛を皇妃とした。 |
という筋書きです。
そうなんです。このクーデターは、住吉仲皇子が起こしたのではなく、葛城一族が去来穂別皇子を使って起こしたクーデターなのではないか?と考えました。
だからこそ、仲皇子に味方した3者の誰も、罰を受けることが無かったのです。
いやいや、妄想です。
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