儲君を立てる
履中2年 辛丑 401
正月四日 瑞歯別皇子を立てて儲君としました。
十月 磐余に都を作りました。この時、平群木莵宿禰・蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執りました。
磐余池の造営
十一月 磐余池を作りました。
原 文
二年春正月丙午朔己酉、立瑞齒別皇子爲儲君。冬十月、都於磐余。當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事。十一月、作磐余池。 |
ひとことメモ
儲君
儲君は、皇位継承者を指します。ですから皇太子と同じです。時代によっては、儲君が立太子礼の儀式を経て皇太子となったとか。いずれにしても皇位継承者であることには変わりないです。
ですが、皇后→皇妃、太子→儲君と言う具合に、今までとは違う単語が使われているのには、なんだか特別な何かを感じます。
磐余池
磐余市磯池とも。現在の奈良県桜井市池之内から橿原市池尻あたりにあったと推定されている古代の貯水池。
堤防跡(ダム跡)が発見されて以降、その信ぴょう性が高まったといいます。
南から北へ「戒外川」が流れていて、丘陵と丘陵の間に堤防を築くと、その川の流れが堰き止められて池になるという寸法です。
こうしてみると、稚櫻宮のすぐ近くまで水面が迫っていたことがわかります。
季節外れの桜の花びら
履中3年 壬寅 402
十一月六日 天皇は、両枝船を磐余市磯池に浮かべて、皇妃と別々の船に乗られて遊ばれました。 膳臣余磯が酒を献上しました。
その時、櫻の花びらが舞ってきて、盃に入りました。天皇は怪しまれて、物部長眞胆連に
「この花は、季節に外れている。何処の花か、自ら行って探してこい」
とおっしゃいました。長眞胆連は、独りで花を探しにいき、掖上室山でその花を手に入れて献上しました。
天皇は珍しさを喜ばれ、宮の名前にしました。磐余稚櫻宮というのは、これが由来です。
この日、長眞胆連の本姓を改めて、稚櫻部造とし、膳臣余磯を稚櫻部臣とされました。
原 文
三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇、泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乘而遊宴。膳臣餘磯獻酒、時櫻花落于御盞、天皇異之則召物部長眞膽連、詔之曰「是花也非時而來、其何處之花矣、汝自可求。」於是、長眞膽連、獨尋花、獲于掖上室山而獻之。天皇歡其希有、卽爲宮名、故謂磐余稚櫻宮、其此之緣也。是日、改長眞膽連之本姓曰稚櫻部造、又號膳臣餘磯曰稚櫻部臣。 |
ひとことメモ
掖上室山
掖上室山とは、どこなのでしょうか。
御所市柏原の地名に「掖上」があります。そして「室」と言う地名もあります。このあたりの山のどれかということになりましょうか。
しかし、ここから池まで10km。桜の花びらが届く距離ではないです。
ただ、神武天皇が造った橿原宮は、この柏原であるという説もあります。国見をした「腋上の嗛間丘」もこのあたりだったということですので、神武天皇を偲ぶという意味合いで、言い換えると葛城王朝を偲ぶという意味合いで、この逸話が挿入されたのではないかと思ったりします。
石上溝
履中4年 癸卯 403
八月八日 初めて諸国に国史を置きました。言葉や出来事を記録し、諸国の情報を記録するためのものです。
十月 石上溝を掘りました。
筑紫の三神
履中5年 甲辰 404
三月一日 筑紫に坐します三神が宮中に現れて、
「どうして、我が民を奪ったのか。私はお前に恥じ入らせようぞ」
と仰せられました。この時、天皇は、祈祷は行われましたが、祀りはなさいませんでした。
淡路の伊弉諾神
九月十八日 淡路嶋で狩をされました。
この日、河内の飼部らが従い馬の轡を取っていました。飼部らは皆、目尻の傷が治っていませんでした。
この時、嶋に坐します伊奘諾神が、祝に神懸りして、
「血の臭いに堪えられぬ」
と仰せられました。 そこで占うと、
「飼部らの目尻の入れ墨の傷が悪い」
とのこと。 よってこれ以後、飼部に入れ墨をすることをやめられました。
原 文
四年秋八月辛卯朔戊戌、始之於諸國置國史、記言事達四方志。冬十月、堀石上溝。
五年春三月戊午朔、於筑紫所居三神、見于宮中、言「何奪我民矣、吾今慚汝。」於是、禱而不祠。秋九月乙酉朔壬寅、天皇狩于淡路嶋。是日、河內飼部等從駕執轡。先是、飼部之黥皆未差。時、居嶋伊奘諾神、託祝曰「不堪血臭矣。」因以、卜之、兆云「惡飼部等黥之氣。」故自是以後、頓絶以不黥飼部而止之。 |
ひとことメモ
石上溝
布留遺跡杣之内(樋ノ下・ドウドウ地区)で発掘された大型掘立柱建物群のそばから、太い溝が発見されました。
これが石上溝と考えられています。
布留川の左岸、奈良県天理市杣之内町の天理小学校の東側です。
筑紫の三神・淡路の伊弉諾神
筑紫の三神は宗像三女神のことです。「我が民を奪ったから、祟ってやる!」と言いました。
淡路の伊弉諾神は、「血生臭い!」と怒ってます。要するに「お前は穢れている!」ということです。
なんとも不穏な雰囲気が醸し出されてきましたよ。
そして、これらに対して、天皇はテキトーな対処をしたに留まりました。これが悲劇を生む原因となるのです。
この説話は、編纂者が、「履中天皇は、策略をもって皇太子だった住吉仲皇子を暗殺し天下を奪い取った、だから血生臭い穢れた天皇なのだ」ということを暗に言いたかったのではないかと想像します。
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