日本書紀|第十七代 履中天皇⑧|鷲住王、住吉邑から出仕せず

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鷲住王

履中6年 乙巳きのとのみ 405

正月六日 草香幡梭皇女くさかのはたびのひめみこを立てて皇后とされました。 同月二十九日 始めて蔵職くらのつかさを立てて、蔵部くらひとべを定められました。

二月一日 鯽魚磯別王ふなしわけのおほきみの娘の太姫郎姫ふとひめのいらつめ髙鶴郎姫たかつるのいらつめをお召しになり、後宮に入れてみめとされました。 この二人のみめがいつも嘆いて

「ああ悲しや。兄上はどこへ行ったのやら」

と言っておりました。 天皇がその嘆くのを聞かれて、

「そなたらは、何を嘆いているのだ?」

と問われたところ、

「私めの兄の鷲住王わしすみのおほきみは、力が強く、かつ、敏捷で、一人で八尋屋を飛び越えて行ってしまいました。それから何日も経ちますが、会って話をすることが出来ません。それで歎いているのです」

と申し上げました。 天皇は、力が強いことを喜んで、お呼びになりましたが参来しませんでした。重ねて使いを出しましたが、なおも参来せず、鷲住王わしすみのおほきみ住吉邑すみのえむらから動きませんでした。よってこれ以上は呼びませんでした。 この者が讃岐国造と阿波国の脚咋別あしくひわけの、二族の始祖です。

三月十五日 天皇は病気になられ、その病気のために体が臭うようになり、稚桜宮わかさくらのみやで崩御されました。享年、七十歳でした

十月四日 百舌鳥耳原陵もずのみみはらのみささぎに埋葬申し上げました。

 原 文

六年春正月癸未朔戊子、立草香幡梭皇女、爲皇后。辛亥、始建藏職、因定藏部。二月癸丑朔、喚鯽魚磯別王之女太姬郎姬・高鶴郎姬、納於後宮、並爲嬪。於是、二嬪恆歎之曰「悲哉、吾兄王、何處去耶。」天皇聞其歎而問之曰「汝何歎息也。」對曰「妾兄鷲住王、爲人强力輕捷、由是、獨馳越八尋屋而遊行。既經多日、不得面言、故歎耳。」天皇、悅其强力以喚之、不參來、亦重使而召、猶不參來、恆居於住吉邑。自是以後、廢以不求、是讚岐國造・阿波國脚咋別、凡二族之始祖也。 三月壬午朔丙申、天皇玉體不悆、水土弗調、崩于稚櫻宮。時年七十。冬十月己酉朔壬子、葬百舌鳥耳原陵。

 ひとことメモ

鯽魚磯別王

鯽魚磯別王ふなしわけのおほきみは、第12代景行天皇と、妃の五十河媛いかわひめ との間に生まれた神櫛皇子かみくしのみこ  の子孫です。

神櫛皇子かみくしのみこ  は景行天皇の命を受けて、讃岐を拠点として瀬戸内海の悪魚(従わない海人)を平定した人です。そんなことから、三世孫の須売保礼命すめほれのみこと が初代の讃岐国造となりました。

よって、鯽魚磯別王ふなしわけのおほきみも讃岐国造だったのでしょう。

鷲住王

讃岐国造の子。実家を飛び出してどこかへ行ったと思ったら、住吉邑にいた。そして、履中天皇の再三に渡る召喚にも、遂には応えることはなかったと書かれています。

これは、讃岐国造家は履中天皇に対して表立って反乱を起こすようなことはないまでも、忠誠心は極めて薄かったということだと思います。

みめとして後宮に入った二人の妹は、まさしく ”人質” 的性格が強かったのではないでしょうか。

住吉仲皇子VS履中天皇

履中天皇記の冒頭に描かれた住吉仲皇子の反乱では、

  • 阿曇連、吾子籠、野嶋海人といった氏族が住吉仲皇子の側
  • 葛城、物部、漢といった氏族が履中天皇側

についていましたよね。

  • 前者は仁徳天皇の御代に中央政権に参画した瀬戸内海から九州の海人出身の豪族たち。
  • 後者は以前からヤマト朝廷を支えてきた古豪たち。

私見として、住吉仲皇子のクーデターは、葛城一族が履中天皇を使って起こした葛城一族のためのクーデターだったと妄想すると述べましたが、プラス、古豪による新興勢力排除も狙ったクーデターだったのではないかと考えます。

「瀬戸内海の讃岐出身の鷲住王が、住吉邑に住み、天皇に従わなかった」という逸話を最後の最後に挿入したのは、日本書紀編纂者が、履中天皇即位にまつわる真相のヒントを書き残しておきたかったから?

と考えるのは、あまりにも勘繰りすぎでしょうか。。。

百舌鳥耳原陵

履中天皇陵である百舌鳥耳原陵もずのみみはらのみささぎは、世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」を構成する古墳のひとつ、ミサンザイ古墳に治定されています。別名、百舌鳥耳原南陵、石津ヶ丘古墳。

墳長365mの前方後円墳で、仁徳天皇陵・応神天皇陵に次いで日本で3位、百舌鳥古墳群の中では2位の大きさを誇ります。

造営時期は5世紀前半とされ、これは5世紀中頃に造営されたと推定される大仙古墳(仁徳天皇陵に治定)よりも古いことから、大仙古墳は仁徳天皇陵ではないのでは?という議論を呼んでいます。

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