日本書紀|第十三代 成務天皇|行政区画の整備と地方創生
稚足彥天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
第十三代 成務(せいむ)天皇
即位前
稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと:成務天皇)は大足彦忍代別天皇(景行天皇)の第四子で、母は皇后の八坂入姫命(やさかいりひめのみこと)とおっしゃり、八坂入彦皇子(やさかいりびこのみこ)の御娘です。
景行四十六年
皇太子となられました。御年二十四歳でした。
景行六十年
冬十一月に大足彥天皇が崩御されました。
即位
成務元年(131年)
春 正月五日 皇太子が天皇に即位されました。この年は太歳辛未(かのとのひつじ)でした。
成務2年(132年)
冬 十一月十日 景行天皇を倭国の山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)に埋葬申し上げました。皇后を尊んで、皇太后と申しあげます。
成務3年(133年)
春 正月七日 武内宿禰(たけうちのすくね)を大臣(おほおみ)に任命しました。天皇と武内宿禰は同じ日に生まれたので、天皇は竹内宿禰をとても寵愛されました。
原 文
稚足彥天皇、大足彥忍代別天皇第四子也。母皇后曰八坂入姬命、八坂入彥皇子之女也。大足彥天皇卌六年、立爲太子、年廿四。六十年冬十一月、大足彥天皇崩
元年春正月甲申朔戊子、皇太子卽位。是年也、太歲辛未。 二年冬十一月癸酉朔壬午、葬大足彥天皇於倭國之山邊道上陵。尊皇后曰皇太后 三年春正月癸酉朔己卯、以武內宿禰爲大臣也。初天皇與武內宿禰同日生之、故有異寵焉 |
ひとことメモ
山邊道上陵
景行天皇が埋葬された山邊道上御陵は、奈良県天理市渋谷町にある渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)に治定されています。墳丘の長さ300mで、全国8位・奈良県2位の巨大な前方後円墳です。
崇神天皇の西にある黒塚古墳は、三角縁神獣鏡が33枚も出土したことで有名な古墳です。
詔勅
成務4年(134年)
・二月一日 天皇は詔して
「先帝の景行天皇は、聡明にして、神の如き武勇にて、天命を受けて皇位に就かれた。天意にかない人心に従う治世を営み、賊を廃して正道を取り戻された。
よって、徳は天地を覆い照らし、道は造化の理にかなっていた。天下は従わないということは無く、万民が安んじないことは無かった。
今、私が皇位を継ぎ、朝に夕に畏れ謹んでいる。しかし、人民は虫のようにうごめき、野心を改めようとしない。
それは、国や郡に君長(ひとごのかみ)がなく、縣や邑に首渠(おびと)がいないからだろう。
そこで今後は、国郡に長(おさ)を置き、縣邑に首(かみ)を置くことにする。適任の者を選んで、それぞれの首長(ひとごのかみ)に任ぜよ。これにより、中央を守る垣根となるだろう。」
とおっしゃいました。
原 文
四年春二月丙寅朔、詔之曰「我先皇大足彥天皇、聰明神武、膺籙受圖。洽天順人、撥賊反正、德侔覆燾、道協造化。是以、普天率土、莫不王臣、稟氣懷靈、何非得處。今朕嗣踐寶祚、夙夜兢惕。然、黎元蠢爾、不悛野心。是、國郡無君長、縣邑無首渠者焉。自今以後、國郡立長、縣邑置首。卽取當國之幹了者、任其國郡之首長、是爲中區之蕃屏也」 |
造長、稲置の設置
成務5年(135年)
・九月 国郡(くにこおり)に造長(みやつこのおさ)を立て、縣邑(あがたむら)に稲置(いなき)を置き、楯と矛を与えて、そのしるしとされました。
また、山河の境で国縣を分け、縦横の道でもって邑里(むら)を定められました。
東西を日縦(ひのたたし)とし、南北を日横(ひのよこし)とし、山の陽(南)を影面(かげとも)といい、山の陰(北)を背面(そとも)といいます。
これをもって、人民は安住し、天下太平となりました。
原 文
五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉 |
ひとことメモ
行政区画の整備
成務天皇が行った行政区画の整備は、実は日本史上に燦然と輝く、すごい偉業なのです。
古事記の序文に、歴代天皇の中でも特に素晴らしい偉業を成し遂げた4人の天皇の一人として紹介されているぐらいです。
10代崇神天皇の祭祀、13代成務天皇の行政区改革、16代仁徳天皇の善政、19代允恭天皇の氏姓改革です。
そんな偉業を成し遂げた天皇なのに、それ以外の事績はなく、皇后や皇子女に関する記述もありません。
そんなことから、その実在性が疑問視されています。
立太子、崩御
成務48年(178年)
・三月一日 甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと )を皇太子に立てられました。
成務60年(190年)
・六月 成務天皇が崩御が崩御されました。享年107歳でした。
原 文
卌八年春三月庚辰朔、立甥足仲彥尊、爲皇太子
六十年夏六月己巳朔己卯、天皇崩、時年一百七歲 |
日本書紀巻第七 完
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