日本書紀|第二十二代 清寧天皇①|星川皇子の反乱

2021年9月23日

白髪武廣國押稚日本根子天皇
-しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと-

第二十二代 清寧天皇
-せいねいてんのう-

 

スポンサーリンク

清寧天皇のひととなり

白髪武廣國押稚日本根子天皇しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと(清寧天皇)は大泊瀬幼武天皇おほはつせのわかたけのすめらみこと(雄略天皇)の第三子で、母は葛城韓媛かづらきのからひめ「1」いいます。

天皇は、生まれながらにして白髪でした。成人してからは民を深く愛されました。雄略天皇の皇子たちの中でも特に霊異なところがおありでした。

雄略二十二年

皇太子となられました。

 原 文

白髮武廣國押稚日本根子天皇、大泊瀬幼武天皇第三子也、母曰葛城韓媛。

天皇、生而白髮、長而愛民、大泊瀬天皇於諸子中特所靈異。廿二年、立爲皇太子。

星川皇子の反乱

雄略二十三年

八月に雄略天皇が崩御されました。

その時、吉備稚媛きびのわかひめは、秘かに幼子の星川皇子ほしかはのみこ

「天下の位に登るためには、まず先に大蔵の役所を取りなさい」

といいました。

長子の磐城皇子いはきのみこは、母がそのように幼子に教えているのを聞いて、

「皇太子は弟ではあるが、何で欺くことができようか。それはしてなならぬことです」

といいました。

しかし星川皇子はこれを聞かず、母の意向に軽々しく従って、遂には大蔵の役所を取りました。

そして外門を閉めて鎖で固め、攻撃に備えました。権勢をふるい、公の物を勝手に使いました。

大伴室屋大連おほとものむろやのおほむらじ は、東漢掬直やまとのあやのつかのあたひ  に

「雄略天皇の遺詔が、今まさにそのとおりになろうとしている。遺詔に従って皇太子にお仕えするぞ!」

と言い、軍を派遣して大蔵を取り囲んで閉じ込め、火をつけて焼き殺しました。

この時、吉備稚媛と、磐城皇子の異父兄である兄君えきみ城丘前来目きのをかさきのくめ「2」 名を欠く も、星川皇子と共に焼き殺されました。

 原 文

白髮武廣國押稚日本根子天皇、大泊瀬幼武天皇第三子也、母曰葛城韓媛。天皇、生而白髮、長而愛民、大泊瀬天皇於諸子中特所靈異。廿二年、立爲皇太子。

廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰「欲登天下之位、先取大藏之官。」長子磐城皇子、聽母夫人教其幼子之語、曰「皇太子、雖是我弟、安可欺乎、不可爲也。」

星川皇子、不聽、輙隨母夫人之意、遂取大藏官。鏁閉外門、式備乎難、權勢自由、費用官物。於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰「大泊瀬天皇之遺詔、今將至矣。宜從遺詔、奉皇太子。」乃發軍士圍繞大藏、自外拒閉、縱火燔殺。

是時、吉備稚媛・磐城皇子異父兄々君・城丘前來目闕名、隨星川皇子而被燔殺焉。

三野県主小根の命乞い

ただひとり、河内三野縣主小根かわちのみののあがたぬし おね「3」は、恐れ慄いて火を避けて脱出し、草香部吉士漢彦くさかべのきし あやひこの脚に抱き着いて、大伴室屋大連へ助命をとりなして欲しいといい、

「私め縣主の小根は、星川皇子に仕えていたのは事実です。しかしながら皇太子に背いたことはありません。どうか、お恵みにより命だけはお助けください」

といいました。

漢彦あやひこは大伴大連に事の次第を詳しく申し上げ、小根は刑罰には入りませんでした。

小根は重ねて漢彦あやひこを使いとして大伴大連に

「大伴大連様、君の大きな恵によって、短く終わってしまう命が長らえて、日の目を見ることが出来ました」

と伝えて、難波来目邑大井戸なにはの くめのむらの おおいへの田十町を大連に贈り、さらに、田地を漢彦あやひこに与えて、その恩に報いました。

 原 文

惟河內三野縣主小根、慓然振怖、避火逃出、抱草香部吉士漢彥脚、因使祈生於大伴室屋大連曰「奴縣主小根、事星川皇子者、信。而無有背於皇太子。乞、降洪恩、救賜他命。」

漢彥、乃具爲啓於大伴大連、不入刑類。小根、仍使漢彥啓於大連曰「大伴大連、我君、降大慈愍、促短之命、既續延長、獲觀日色。」輙以難波來目邑大井戸・田十町送於大連、又以田地與于漢彥、以報其恩。

吉備上道臣が援軍を派遣

この月 吉備上道臣きびのかみつみちのおみらは、朝廷で内乱が起こったと聞いて、同族の腹に生まれた星川皇子を救おうと思い、軍艦四十艘を率いて、「4」海路をやって来ました。

しかし、既に星川皇子が焼き殺されたことを知って、海路を帰りました。天皇は、使いを遣わして、上道臣らを詰問して責め、管理下の山部やまべを没収しました。

十月四日 大伴室屋大連は、臣連らを従えて、皇太子にみしるしを奉りました「5」

 原 文

是月、吉備上道臣等、聞朝作亂、思救其腹所生星川皇子、率船師卌艘、來浮於海。既而、聞被燔殺、自海而歸。天皇、卽遣使、嘖讓於上道臣等而奪其所領山部。

冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子。

ひとことメモ

s-1

雄略天皇の第三子で母は葛城韓媛

第三子について

清寧天皇は雄略天皇の第三子とあります。となると、二人の兄か姉がいるということになります。

しかし母である 葛城韓媛かづからきのからひめ の子は白髪皇子(清寧天皇)と栲幡姫たくはたひめ皇女の二人だけですから、???となります。

その答えは、「星川皇子の乱」の中に記述されています。

反乱を目論む星川皇子と吉備稚媛きびのわかひめを諫めようとした長子の磐城皇子いはきのみこ が、「皇太子(清寧天皇)は弟ではあるが、、、」

ですから、長子は磐城皇子いはきのみこで、次が星川皇子、そして清寧天皇という順番ということになります。

がしかし、順序が合いません。

雄略天皇が葛城円大臣を殺して娘の葛城韓媛を妃としたのが安寧3年。
日本書紀|第二十一代 雄略天皇②|兄達を殺したついでに葛城氏を滅ぼした

雄略天皇が吉備稚媛きびのわかひめを妃にしたのは、雄略7年です。
日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑬|妻を天皇にとられた吉備田狭が新羅へ亡命

7年もの開きがあります。ないことはないでしょうけど、不自然ではありますね。

葛城韓媛について

雄略天皇は、徹底した反葛城だったはずです。しかし、皇太子に葛城出身の妃の子を指名しました。

生まれながらの白髪に霊威を感じたからだと言ってますが、そうなんでしょうか。

葛城氏の勢力が盛り返してきていたのではないかと感じます。

s-2

兄君えきみ城丘前来目きのをかさきのくめ

磐城皇子の異父兄である兄君えきみ城丘前来目きのをかさきのくめ

磐城皇子の母は吉備稚媛で、父は雄略天皇です。その磐城皇子の異父兄となると、まず思いつくのが吉備稚媛の前の夫である吉備上道臣田狭との間にあった二人の子。

しかし、その内の弟君は朝鮮半島で死んだことになってますが、、、生きていたのかもしれないです。

日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑬|妻を天皇にとられた吉備田狭が新羅へ亡命

日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑭|田狭と弟君の企み。/ 弟君が妻に殺される。

s-3

河内三野縣主

三野縣は、大阪府東大阪市の水走・松原・吉田・花園・玉串・八尾市の福万寺・上之島という南北に長い広大な地域でした。

一番南に御野県主神社があり、旧大和川(現:玉串川)の自然堤防の跡が残ってます。

 
s-4

吉備上道臣らが四十艘の軍艦で、、、

雄略天皇が崩御し、吉備系の星川皇子が反乱を起こしました。結果は敗北だったのですが、雄略天皇の御代に吉備一族の反乱が相次いで起こりました。

吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみ さきつやの増長

舎人を軟禁したうえに、天皇を呪詛した疑いで誅殺された事件。
第二十一代 雄略天皇⑫|吉備下道臣前津屋の反乱

●吉備氏の乱

吉備上道臣の田狭が新羅と結託して朝廷に反乱。鎮圧に派遣された田狭の子も同調して任務放棄。
第二十一代 雄略天皇⑬|妻を天皇にとられた吉備田狭が新羅へ亡命

●星川皇子の乱

雄略天皇が崩御のあと、大蔵を占拠して皇位を目論んだ。吉備軍が40艘の軍艦で援軍を送るも間に合わず、星川皇子・吉備稚媛らは大伴室屋軍に敗れて焼き殺された事件。

これら反乱の背景には、、、

岡山に大型古墳が多くあることでもわかるように、吉備一族の経済力が増大したことが上げられます。

その経済力と瀬戸内海に面する立地から、度重なる朝鮮半島への軍事活動時に大きな負担を強いられてきた不満が噴出したのだと考えられます。

s-5

みしるし

みしるしとは、皇位を示すしるしのこと。三種の神器の中の八尺瓊勾玉のことを指す場合が多いようです。

でももしかしたら、天皇の印鑑かも。

スポンサーリンク