日本書紀|第二十二代 清寧天皇②|磐余甕栗宮・億計と弘計・飯豊皇女

2021年10月25日

白髪武廣国押稚日本根子天皇
-しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと-

第二十二代 清寧天皇
-せいねいてんのう-

続き、、、

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即位

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清寧元年 庚申かのえのさる 480年

正月十五日 役人に命じて、壇場たかみくら磐余の甕栗みかくり「1」に設けて天皇に即位され、遂にみやを定められました。

葛城韓媛かずらきのからひめを尊んで、皇太夫人おおきさきとされました。

大伴室屋大連おおよものむろやのおおむらじ を 大連おおむらじ とし、平群眞鳥大臣へぐりのまとりのおほおみ を 大臣おおおみ とされましたが、これは今までどおりです。

十月九日 雄略天皇を丹比高鷲原陵たぢひのたかわしのはらのみささぎ「2」に埋葬申し上げました。

この時、隼人が、山陵の側で泣き叫び、食べ物を与えても食べず、七日後に亡くなったので、役人がその墓を山陵の北に造り、礼をもって埋葬しました。

この年の太歳は庚申かのえのさるです。

 原 文

元年春正月戊戌朔壬子、命有司、設壇場於磐余甕栗、陟天皇位、遂定宮焉。尊葛城韓媛、爲皇太夫人。以大伴室屋大連爲大連、平群眞鳥大臣爲大臣、並如故。臣連伴造等、各依職位焉。

冬十月癸巳朔辛丑、葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵。于時、隼人晝夜哀號陵側、與食不喫、七日而死、有司造墓陵北、以禮葬之。

是年也、太歲庚申。

 

億計おけ弘計をけの兄弟を発見!

清寧2年 辛酉かのとのとり 481年

二月 天皇は子が無いことを恨めしく思い、大伴室屋大連を諸国に遣わして、白髪部舎人しらかべのとねり・白髪部膳夫かしわで・白髪部靫負ゆげいを置き、後世に名を残そう願いました。

十一月 大嘗おおにへに奉納する供え物を得るために、播磨国に遣わした 山部連やまべのむらじ の 先祖とほつおや伊豫来目部小楯いよのくめべのをだては、赤石郡あかしのこほり の 縮見屯倉首しじみのみやけのおびと の 忍海部造細目おしぬみべのみやつこ ほそめ の新居で、市邊押磐皇子いちのへのおしはのみこ の子である 億計おけ弘計をけの兄弟 「3」を見つけました。

畏れ敬いながらも抱き合い、君として仕えようと思い、謹んで養育申し上げ、私財を投げうって、 柴宮しばのみや を建て、仮の宮として住まい頂きました。

そして、早馬を飛ばして天皇に奉上しました。

天皇は、驚き嘆かれ、そして哀しんでから、

「それはめでたいことよ。よろこばしいことよ。天は博愛を垂れて、(私に)二人の子供を賜ったのじゃ」

とおっしゃいました。 この月 小楯をだてと側近の舎人を遣わして、赤石へ迎えに行かせました。このことは、弘計天皇をけのすめらみこと(顕宗天皇)のまきに書かれています。

 原 文

二年春二月、天皇、恨無子、乃遣大伴室屋大連於諸国、置白髮部舍人・白髮部膳夫・白髮部靫負、冀垂遺跡令觀於後。

冬十一月、依大嘗供奉之料、遣於播磨国司、山部連先祖伊豫來目部小楯、於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子々億計・弘計、畏敬兼抱、思奉爲君、奉養甚謹、以私供給、便起柴宮、權奉安置。乘騨馳奏、天皇愕然驚歎、良以愴懷曰「懿哉悅哉、天垂博愛、賜以兩兒。」

是月、使小楯持節、將左右舍人、至赤石奉迎、語在弘計天皇紀。

 

飯豊皇女いいどよのひめみこ

清寧3年 壬戌みずのえのいぬ 482年

正月一日 小楯らは、億計と弘計とをお連れして、摂津国に着きました。

天皇は、臣・連に みしるし を持たせて、皇子が乗る 青蓋車あをきぬがさのくるま  で宮中に迎え入れました。

四月七日 兄の億計王おけのみこを皇太子に、弟の弘計王をけのみこを皇子にされました。

七月 飯豊皇女いいどよのひめみこ 「4」が、角刺宮つのさしのみや で夫と初めての交ぐわいをしました。人に語るには、

「女の道の一つを知ったが、とくになんということもない。以後、男と交わりたいとは思わない。」

夫がいると言っているが、詳細はわかりません。

九月二日 おみむらじを派遣して、民の様子を巡視させました。

十月四日「犬、馬、そして玩具は、献上してはならない」と詔されました。

十一月十八日 大庭で、臣・連ととよのあかりを行い、綿わたきぬを与えられました。皆は自分の力の限り持てるだけ持って、退室しました。

この月 海外の諸蕃が、そろって使者を派遣してきてきて貢物を奉りました。

 原 文

三年春正月丙辰朔、小楯等、奉億計・弘計、到摂津国。使臣連持節、以王靑蓋車、迎入宮中。

夏四月乙酉朔辛卯、以億計王爲皇太子、以弘計王爲皇子。

秋七月、飯豐皇女、於角刺宮與夫初交、謂人曰「一知女道、又安可異。終不願交於男。」此曰有夫、未詳也。

九月壬子朔癸丑、遣臣連、巡省風俗。

冬十月壬午朔乙酉、詔「犬・馬・器翫、不得獻上。」

十一月辛亥朔戊辰、宴臣連於大庭、賜綿帛、皆任其自取、盡力而出。

是月、海表諸蕃、並遣使進調。

 

崩御

清寧4年 癸亥みずのとのい 483年 正月七日 海外の使者と朝堂で宴会をし、それぞれに違う賜り物をされました。

閏五月 5日に渡り、大いに飲みました。

八月七日 天皇は、直々に囚人を訪問して話をしました。 この日より 蝦夷えみし も 隼人はやと も共に従うようになりました。

九月一日 天皇は射殿ゆみどのにお越しになり、百寮と海表の使者に詔して弓を射させられました。それぞれに違う賜物を与えられました。

清寧5年 甲子(きのえのね) 484

正月十六日 清寧天皇が崩御されました。享年はよくわかっていません。 十一月九日 河内坂門原陵かわちのさかとのはらのみささぎ「5」埋葬申し上げました。

 
 原 文

四年春正月庚戌朔丙辰、宴海表諸蕃使者於朝堂、賜物各有差。

夏閏五月、大餔五日。

秋八月丁未朔癸丑、天皇、親錄囚徒。是日、蝦夷・隼人並內附。

九月丙子朔、天皇、御射殿、詔百寮及海表使者射、賜物各有差。

五年春正月甲戌朔己丑、天皇崩于宮、時年若干。

冬十一月庚午朔戊寅、葬于河內坂門原陵。

 
 
 

ひとことメモ

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磐余甕栗宮

清寧天皇は磐余の甕栗に宮を営みました。 その場所は、奈良県橿原市東池尻にある御厨子山の山頂だといわれています。今、御厨子神社がある場所です。 

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丹比高鷲原陵たぢひのたかわしのはらのみささぎ

大阪府羽曳野市島泉に、隣接する2つの古墳があります。高鷲丸山古墳と平塚古墳です。

高鷲丸山古墳は古市古墳群の中では唯一の大型円墳。
一方平塚古墳は方墳とされていますが、実は古墳かどうかは定かではないとのこと。

1864年までは、高鷲丸山古墳だけが雄略天皇陵とされていましたが、平塚古墳を雄略天皇前陵として境域に取り込んで、その後、合わせて前方後円形に整形されました。

今現在は、2つの古墳が雄略天皇陵に治定されています。 ですが、高鷲丸山古墳が、同時期の大王の古墳と比較した時、円墳であること、規模が小さいこと、などから雄略天皇の陵としては疑問視されています。

  

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億計おけ弘計をけの兄弟

雄略天皇の即位には、多くの血が流れました。

雄略は皇位継承の資格がある皇子たちを次々を殺したからです。

その殺された皇子たちのうちの一人が、億計おけ弘計をけの兄弟の父親である市邊押磐皇子いちのへのおしはのみこ

父親が殺されたと知った子供たちは、その害が自分たちにも及ぶことを察して逃げたのです。

第二十一代 雄略天皇③|市辺押磐皇子・御馬皇子も。政敵一掃作戦の総仕上げ

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飯豊皇女いいどよのひめみこ

飯豊皇女いいどよのひめみこは謎の皇女です。 謎の一つは系譜。

  • 古事記と日本書記(履中紀)では、父が履中天皇で、母が黒媛(葛城襲津彦の子)。
  • 日本書紀(顕宗紀)では、父が市邊押磐皇子いちのへのおしはのみこで、母が荑媛(葛城蟻臣の子)。

前者だと、飯豊皇女いいどよのひめみこ市邊押磐皇子いちのへのおしはのみことは兄弟の関係になります。ですから、億計と弘計とは叔母と甥の関係です。

後者だと、飯豊皇女いいどよのひめみこ市邊押磐皇子いちのへのおしはのみことは娘と父親の関係となります。ですから億計と弘計とは姉弟の関係になります。

折衷案として、前者でもあり後者でもあるという説があります。叔母と姪が同じ名前だったという説です。

いずれにしても、億計と弘計が見つかったこの年に新婚初夜を迎えたということであれば、履中天皇の娘とは考えにくいですね。

もう一つの謎、史上初の女帝だった?については後述します。

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河内坂門原陵かわちのさかとのはらのみささぎ

大阪府羽曳野市西浦にある白髪山古墳が河内坂門原陵として清寧天皇陵に治定されています。

他の前方後円墳と比較して、前方部分が大きいのが特徴。後円部分の幅の2倍はあるでしょうか。

古市駅から南西に1.2km。途中に日本武尊白鳥陵もあります。

 

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