日本書紀|第二十八代 宣化天皇①|即位・皇子女・蘇我稲目大臣

武小廣國押盾天皇
(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)
第二十八代 宣化(せんか)天皇

 

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目次

宣化天皇の人となり

武小広国押盾天皇たけおひろくにおしたてのすめらみことは、継体天皇けいたいてんのうの第二子で、安閑天皇あんかんてんのうの同母弟です。

安閑天皇二年

十二月、安閑天皇が崩御されましたが後嗣がありませんでした。そこで、群臣くんしんが剣と鏡を武小廣國押盾尊たけおひろくにおしたてのみことに奏上して、天皇の位に就かれました。

この天皇の人となりは、清く透き通り、心が朗らかで、才能や地位などで驕ることなく、王ぶることもなく、立派な人でした。

武小廣國押盾天皇、男大迹天皇第二子也、勾大兄廣國押武金日天皇之同母弟也。二年十二月、勾大兄廣國押武金日天皇崩、無嗣。群臣奏上劒鏡於武小廣國押盾尊、使卽天皇之位焉。是天皇、爲人、器宇淸通、神襟朗邁、不以才地矜人爲王、君子所服

 

天皇即位

宣化天皇元年

春一月、都を桧隈ひのくま廬入野いほり「1」に遷し、その地名にちなんで宮の名としました。

二月一日、大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじ大連おおむらじとし、物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじ大連おおむらじとすることは、いずれも元のままでした。

また蘇我稲目宿禰そがのいなめのすくね大臣おおおみ「2」とし、阿倍大麻呂臣あべのおおまろおみ大夫まえつきみとしました。

元年春正月、遷都于檜隈廬入野、因爲宮號也。二月壬申朔、以大伴金村大連爲大連、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。又以蘇我稻目宿禰爲大臣、阿倍大麻呂臣爲大夫。

 

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桧隈廬入野宮

宣化天皇の宮跡は、奈良県高市郡明日香村檜前にあった檜隈寺跡にあったと伝わります。

今、その檜隈寺跡に創建された於美阿志おみあし神社の鳥居横に石碑が立っています。

檜隈エリアは、応神天皇の御代に渡来した阿知使主あちのおみが居住地として与えられた土地で、その子孫である東漢やまとのあや氏が受け継いだ。

そのような渡来人居住区のど真ん中に宮を置いたのはどのようなわけなのでしょうか。興味深いです。

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蘇我稲目宿禰

いよいよ蘇我氏が歴史の表舞台に登場ですね。

かつて大臣を輩出してきた葛城氏や平群氏の本宗家が滅亡したことにより、大伴大連・物部大連といった連姓が権力を持つ時代が続いていましたが、ついに蘇我稲目が大臣になったことで、三つ巴の様相を呈してきました。

当然ながら、三氏を中心とした権力闘争が始まることになります。

記紀に登場する大臣おおおみは以下の通り

  • 武内宿禰・・・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇
  • 和邇日触・・・応神天皇の大臣。
  • 葛城円・・・履中天皇・安康天皇
  • 物部小前・・・允恭天皇
  • 平群真鳥・・・雄略天皇・清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
  • 巨勢男人・・・継体天皇
  • 蘇我稲目・・・宣化天皇・欽明天皇
  • 蘇我馬子・・・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇
  • 蘇我蝦夷・・・舒明天皇・皇極天皇
  • 蘇我入鹿・・・皇極天皇

先代旧事本紀によると、2代懿徳天皇から13代成務天皇までの大臣は物部氏から選任されています。

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皇后と皇子女

三月一日、官僚たちは皇后をお立て頂くよう願い出ました。

八日、みことのりして、

「これまでの正妃、仁賢天皇にんけんてんのうの娘である橘仲皇女たちばなのなかつひめみこ「3」を立てて皇后としたい」

とおっしゃられました。

この皇后が一男三女を産みました。

  • 長女を石姫皇女いしひめのひめみこといい、
  • 次を小石姫皇女こいしひめのひめみこといい、
  • 次を倉稚綾姫皇女くらのわかやひめのひめみこといい、
  • 次を上殖葉皇子かみつうえはのみこ「4」といいます。またの名を椀子まろこといいます。

上殖葉皇子かみつうえはのみこ丹比公たじひのきみと、偉那公いなのきみの二姓の先祖です。

次の妃である大河内稚子媛おおしこうちのわくごひめは、一人の男子を生みました。

  • これを火焰皇子ほのおのみこといいます。

火焰皇子ほのおのみこ椎田君わかたのきみの先祖です。

三月壬寅朔、有司請立皇后。己酉、詔曰「立前正妃億計天皇女橘仲皇女、爲皇后。」是生一男三女、長曰石姬皇女、次曰小石姬皇女、次曰倉稚綾姬皇女、次曰上殖葉皇子、亦名椀子、是丹比公・偉那公、凡二姓之先也。前庶妃大河內稚子媛、生一男、是曰火焰皇子、是椎田君之先也。

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橘仲皇女

橘仲皇女は仁賢天皇の娘さんです。

同母姉の手白香皇女は継体天皇の皇后となりました。異母姉妹の春日山田皇女は安閑天皇の皇后となってます。

継体天皇・安閑天皇・宣化天皇の3代連続で、仁賢天皇の皇女が皇后となったということですね。

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上殖葉皇子

日本書紀では、宣化天皇と橘仲皇后とに生まれた皇子として記されていますが、古事記では妃の川内若子比売との子と記されています。

皇后との子か妃との子か、皇女との子か臣下の娘との子か、この違いは大きな違いで、橘仲皇后が生んだ子となれば皇位継承権が格段に上がります。

でも、次の天皇は欽明天皇です。ですから、古事記の言う通り妃の子だったのかも。

それか、皇后の子だったとしたら、

もともと、継体天皇崩御のとき皇位継承順位トップの欽明天皇がまだ幼少だったため、中継ぎとして安閑天皇・宣化天皇の兄弟で継投させ、成長した暁には欽明天皇が即位するという予定だったともいわれていますので、なくなく皇位を諦めたのかも知れません。

少なくとも、暗殺などの血生臭いことはなかったと思ってます。

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