武小廣國押盾天皇
(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)
第二十八代 宣化(せんか)天皇
那津口に宮家を設置
夏五月一日、詔して、
「食は天下の基本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒やすことはできない。真珠が千箱あっても、どうして凍えることを救えようか。
さても筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。海外の国は、海の様子を窺って来訪し、天候を観測しては貢を奉る。
応神天皇から朕自身に至るまで、収穫した穀物を倉に収めて、貯蔵米として蓄えてきた。凶年であろうとも、良客には厚く饗応してきた。国を安んずるのに、これに過ぐるものはない。
そこで朕は阿蘇君を遣わして、河内国の茨田郡の屯倉の穀物を運ばせる。
蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わして、 尾張国の屯倉の穀物を運ばせよ。
物部大連麁鹿火は新家連を遣わして、新家屯倉の穀物を運ばせよ。
阿倍臣は伊賀臣を遣わして、伊賀国の屯倉の穀物を運ばせよ。
そして那津の口 の官家を修造せよ。「5」
また、筑紫、肥国、豊国の三つの国の屯倉は、散在しており隔たっていて、運ぶのは遥かに険しい路である。もしそれを必要とする場合には、急に備えることが難しい。
諸郡に命じて分け移し、那津のロに集めて建て、非常時に備えて、永く民の命の為とする。
とおっしゃられました。
秋七月、物部麁鹿火大連が薨去されました。「6」
この年は、太歳丙辰です。
夏五月辛丑朔、詔曰「食者天下之本也。黃金萬貫、不可療飢、白玉千箱、何能救冷。夫筑紫國者、遐邇之所朝屆、去來之所關門、是以、海表之國、候海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝洎于朕身、收藏穀稼、蓄積儲粮、遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。故、朕遣阿蘇仍君 未詳也、加運河內國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火、宜遣新家連、運新家屯倉之穀。阿倍臣、宜遣伊賀臣、運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉、散在懸隔、運輸遙阻。儻如須要、難以備卒。亦宜課諸郡分移聚建那津之口、以備非常、永爲民命。早下郡縣、令知朕心。」秋七月、物部麁鹿火大連、薨。是年也、太歲丙辰。 |
那津の口 の官家
那津の口とは、博多湾に流れ込む那珂川の河口とされています。ですから那津の口の官家は福岡市の博多区か中央区のどこかにあったのでしょう。
官家は屯倉と同義語だとされますが、イメージとしては屯倉よりも各が上な感じに思えませんか
海外との窓口あるいは朝鮮半島や九州地方に向けての軍事拠点として、屯倉よりも政治色・軍事色の強い天皇直轄の役所が造営されたということかと思います。
この官家は後に内陸部に移転して太宰府となり、もとの那津口官家は太宰府の前線拠点として「筑紫館」と呼ばれました。
平安時代の海外窓口である鴻臚館が今の福岡城内にあったので、那津口の官家も福岡城あたりにあったのかも知れませんね。
物部麁鹿火大連が薨じる
大伴金村とともに、武烈、継体、安閑、宣化の4天皇の王権を支えた大連です。
継体天皇紀の「磐井の乱」を鎮圧した将軍として描かれています。出陣にあたり九州以西の統治権を与えられたと記述されています。
ちなみに、死去したことを表す言葉として「薨」を使ってます。
薨は、「身分の高い人の死。日本では、皇族および三位(さんみ)以上の人の死」に使う言葉だそうです。
そこで、成務天皇紀から宣化天皇紀までで「薨」が使われている箇所をあげてみると、
- 百濟肖古王薨
- 百濟國貴須王薨
- 百濟枕流王薨
- 百濟阿花王薨
- 百濟直支王薨
- 時大鷦鷯尊、聞太子(菟道稚郎子)薨
- (仁徳天皇の)皇后磐之媛命、薨於筒城宮
- 俄而使者忽來曰 (履中天皇の)皇妃薨
- 大將軍紀小弓宿禰、値病而薨
- 百濟文斤王、薨
- (継体天皇の)父王薨
- 百濟太子淳陀薨
- 百濟國王武寧薨
- 巨勢男人大臣薨
- 日本天皇及太子皇子、倶崩薨
- 物部麁鹿火大連、薨
このように16か所の内、
- 8か所が百済の王が亡くなったとき
- 5か所が皇后や皇太子や天皇の父親など天皇に近しい皇族が亡くなったとき
- 残りの3か所が、紀小弓宿禰大将軍、巨勢男人大臣、物部麁鹿火大連といった重臣
この3人はとんでもなく貢献したのでしょう。
ちなみに、
- 紀小弓宿禰大将軍は、新羅征伐で大活躍しました。
- 物部麁鹿火大連も、将軍として磐井の乱で大活躍しました。
- では、巨勢男人大臣は?あまり活躍していなように思えますが、記紀には書けない部類の活躍の仕方をしたのかも知れませんね。
また、百済の王は日本の皇族にも準ずる地位だったんですね。日本と百済の関係の深さが伺えます。
任那と百済を助ける
宣化天皇二年
冬十月一日、天皇は新羅が任那を攻撃したので、大伴金村大連に詔して、その子である磐と狭手彦を遣わして、任那を助けさせました。
この時、磐は筑紫に留まり、その国の政を執って、三韓に備えました。「7」
狭手彦は、任那に赴き鎮圧し、加えて百済をも救いました。
二年冬十月壬辰朔、天皇、以新羅冦於任那、詔大伴金村大連、遣其子磐與狹手彥、以助任那。是時、磐、留筑紫執其國政、以備三韓。狹手彥、往鎭任那、加救百濟。 |
磐と狭手彦
大伴磐と大伴狭手彦は、ともに大伴金村大連の子。
大伴狭手彦は朝鮮半島に渡り任那を鎮圧し百済をも助けて大活躍しました。後の欽明天皇の御代にも大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐しました。軍事氏族大伴氏らしい活躍ぶりです。
一方、大伴磐は筑紫に留まって、朝鮮半島に渡った狭手彦軍と朝廷との連絡や役を担いつつ、この機に乗じて反乱を起こそうとするような輩を牽制する役割を持っていたのかも知れません。
おそらくは那津菅家を拠点としたと思います。
これを以って北九州の統治権は、物部氏から大伴氏に替ったということになりましょうか。
天皇の崩御
四年春二月十日、天皇は桧隈廬入野宮にて崩御されました。享年七十三歳でした。
冬十一月十七日、天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上陵「8」に埋葬しました。皇后である橘皇女とその孺子をこの陵に合葬しました。「9」
皇后の崩御年は伝記に載っていません。孺子は未成人を葬ったのでしょうか。
四年春二月乙酉朔甲午、天皇崩于檜隈廬入野宮、時年七十三。冬十一月庚戌朔丙寅、葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵。以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。皇后崩年、傳記無載。孺子者、蓋未成人而葬歟。 |
身狭桃花鳥坂上陵
身狭桃花鳥坂上陵は、奈良県橿原市鳥屋町にある鳥屋ミサンザイ古墳に治定されています。墳丘長130mの前方後円墳です。
この古墳のある鳥屋町は、神武東征後の論功行賞で道臣命が賜った土地。すなわち、軍事氏族大伴氏の大和国における本拠です。大伴勢力内に宣化天皇の御陵がある。
このようなことからも、宣化天皇と大伴金村との関係性が伺えます。
橘皇女とその孺子を合葬
安閑天皇の御陵に続き、宣化天皇の御陵にも皇后や子が合葬されました。
合葬されたからといって、同時に亡くなったと言えるわけではないですよ。
といいつつも、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇の流れからの欽明天皇即位は不自然極まりないので、もしかしたら暗殺???と思いたくもなりますよね。
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