日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑩|石上神宮の神宝
五十瓊敷入彦命の剣一千口
垂仁39年(後10)
・十月 五十瓊敷命(いにしきのみこと)は、茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)に居ら、剣一千口(つるぎ ち ふり)を作りました。
よって、その剣を川上部(かはかみべ)といいます。亦の名を裸伴(あかはだかとも)ともいいます。
そして、これらの剣を石上神宮に納めました。その後、天皇は、五十瓊敷入彥命に命じて、石上神宮の神宝を管理させました。
ある話では、、、
五十瓊敷皇子が茅渟の菟砥の河上に居られました。河上(かはかみ)という名の鍛冶を召して、大刀一千口を作らせました。
この時に、五十瓊敷皇子は、
- 楯部(たてぬひべ)
- 倭文部(しとりべ)
- 神弓削部(かむゆげべ)
- 神矢作部(かむやはぎべ)
- 大穴磯部(おほあなしべ)
- 泊橿部(はつかしべ)
- 玉作部(たますりべ)
- 神刑部(かむおさかべ)
- 日置部(ひおきべ)
- 大刀佩部(たちはきべ)
合わせて十個の品部(とものみやつこ)を賜わりました。
その一千口の大刀は、忍坂邑(おさかのむら)に納め、然る後に、石上神宮に遷しました。その時、神が
「春日臣の一族で、市河(いちかは)という者に納めさせよ。」
と望まれましたので、その市河に命じて納めさせました。この市河が物部首(もののべのおみとら)の始祖でです。
と、伝わります。
原 文
卅九年冬十月、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部、亦名曰裸伴裸伴、此云阿箇播娜我等母、藏于石上神宮也。是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神寶。
一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上、而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、賜五十瓊敷皇子。其一千口大刀者、藏于忍坂邑。然後、從忍坂移之、藏于石上神宮。是時、神乞之言「春日臣族名市河、令治。」因以命市河令治、是今物部首之始祖也。 |
ひとことメモ
菟砥川上宮
泉南市と阪南市の境目を流れ大阪湾にそそぐ「男里川」の支流に「菟砥川」が見えます。その上流に宮があったということで、現在、玉田山公園内に菟砥川上宮旧跡碑が立っています。
市河
春日臣の一族の市河とは、現在、石上神宮に配神として祀られている市川臣命のことを指します。
市川臣命は、第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の七世孫であり、10代崇神天皇の御代に武埴安彦の反乱軍を大彦命とともに討伐した「彦国葺」の四世孫となります。
彦国葺は和珥氏の人ですし、春日氏は和珥氏ですから、「春日臣の一族の市河」は一致します。
ですから、同じ物部とはいえ、饒速日命から連なる物部氏ではなく、和珥氏の傍流での物部だということになりましょう。ややこしい。
市川臣命の子孫は、物部首から物部連となり、さらに布留連から布留宿禰へと氏姓を変えていきますが、一貫して石上神宮で祭祀を行っていました。
物部による管理へ
垂仁87年(58年)
・二月五日 五十瓊敷命(いにしきのみこと)は、妹の大中姫(おほなかつひめ)に
「私はすっかり年老いてしまって、神宝を司ることもできなくなった。今後は、お前に任せるぞ。」
とおっしゃいました。大中姫命は、
「私はか弱い女です。どうして高い天神庫(あめのほくら)に登ることができましょうや。」
と辞退しました。五十瓊敷命は
「神庫が高いとはいうが、俺が神倉に届く梯子を作るから、登るのも難しくはないぞ。」
とおっしゃいました。諺にいうところの「天の神庫も梯子のままに」とは、これが由来です。
しかして遂に大中姫命は受諾し、物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)に命じて管理させました。
物部連等が今日に至るまで石上神宮の神宝を管理しているのは、これが由縁なのです。
昔、丹波国の桑田村に甕襲(みかそ)という人がいて、足徃(あゆき)という名の犬を飼っていました。
この犬が牟士那(むじな)という山の獣を噛み殺すと、獣の腹から八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)が出てきましたので献上しました。この玉は今、石上神宮にあります。
原 文
八十七年春二月丁亥朔辛卯、五十瓊敷命、謂妹大中姬曰「我老也、不能掌神寶。自今以後、必汝主焉。」大中姬命辭曰「吾手弱女人也、何能登天神庫耶。」神庫、此云保玖羅。五十瓊敷命曰「神庫雖高、我能爲神庫造梯。豈煩登庫乎。」故、諺曰、天之神庫隨樹梯之、此其緣也。然遂大中姬命、授物部十千根大連而令治。故、物部連等、至于今治石上神寶、是其緣也。昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有八尺瓊勾玉、因以獻之。是玉今有石上神宮也。 |
ひとことメモ
物部十千根大連
垂仁天皇の御代に任命された五大夫のうちの一人。他は、武渟川別(阿倍臣祖)・彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・武日(大伴連祖) 。
前述の物部首の始祖「市河」とは違う、饒速日命・可美真手命から連なる伊香色雄命の子で、饒速日命の七世孫となります。
一般的に知られる、物部守屋公を排出する物部氏は、こちらの後裔です。
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