日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑫|田道間守、常世国へ行く
崩御
垂仁90年(61年)
二月一日 田道間守(たぢまもり)に命じて、常世国(とこよのくに)に遣わして、非時(ときじく)の香果(かくのみ)を求めさせました。今でいうところの橘です。
垂仁99年(70年)
七月一日 垂仁天皇が纏向宮で崩御されました。享年140歳でした。
十二月十日 菅原伏見陵(すがはらのふしみのみささぎ)に埋葬申し上げました。
非時香菓
景行元年(71年)
三月十二日 田道間守が常世国から還ってきました。持ち帰ったものは、非時香菓(ときじくのかくのみ)八竿(やほこ)と八縵(やあみ)でした。
しかし、垂仁天皇が崩御されたことを知り、泣き悲しんで、
「天皇の命を受け、遠い遠い地へ行ってきました。万里の浪を踏み、川を彷徨いました。
常世国は神仙が住む秘境の地、俗人の行けるような場所ではありませんでした。
その為、往復するのに十年も経ってしましたし、まさか、独りで荒海を凌いで本土に戻れるなどとは思いもよらないことでした。しかし、聖帝の神霊のお力により、なんとか還ることができました。
今、その天皇は、既に御崩され、復命することができません。わたくしめが生きていても、何の意味がございましょうや。」
と申し上げました。
その後、天皇の陵に参り、大声で泣いて自害しました。群臣はこれを聞いて、みな涙しました。田道間守は三宅連(みやけむらじ)の始祖です。
原 文
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。 明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。 |
ひとことメモ
菅原伏見御陵
垂仁天皇の御陵は、菅原伏見東陵として奈良県奈良市尼辻町にある宝来古墳に治定されています。実は、西へ1kmほどのところに安康天皇の御陵があります。こちらは菅原伏見西陵。
日本書記では、両天皇とも菅原伏見陵に埋葬されたとありますが、ややこしいので、平安時代の延喜式では東陵・西陵と区別されています。(ややこしいからかどうかは知りませんが、、、)
さて、垂仁天皇陵は、墳長227m。周濠を含めると330mもの長さで、全国第20位の大きさとのこと。
周濠が広くなっている東南部に浮島(オレンジの〇印)があります。これは殉死した田道間守の墓だともいわれていますが、調査されていないので実のところはわからないそうです。
ただ、江戸時代・明治時代の絵図には浮島が描かれていないことから、周濠拡張工事の際に堤の一部が残されたのではと言われています。
とはいえ、わざわざこの部分を残したのは何故?と思いませんか?きっとこの部分には残すべき何らかの意味があるのだと思うのです。
八竿(やほこ)と八縵(やあみ)
八竿とは、実が付いたままの枝を八本という意味でしょう。
八縵とは、実を紐で繋いだものを八セットという意味でしょう。
死を覚悟して10年もの年月をかけて、やっとのことで持ち帰ったミカンがたったこれだけ。。。
天皇の命令の重さ、言い換えると「徳の高さ」を感じます。また、今の社会が、どれほど便利で恵まれたものか。私たちは「今」に感謝しなければならないでしょう。
日本書紀巻第六 完
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