日本書紀|第十一代 垂仁天皇②|都怒我阿羅斯等と比売語曽神
任那と新羅
この年に、任那人の蘇那曷叱知(そなかしち)が、
「国に帰りたい」
と申し出ました。(思うに、先代天皇の御代に来朝してから、一度も帰還してなかったのでしょう。)
そこで、蘇那曷叱智に厚く恩賞を与え、さらには赤絹一百匹を持たせて、任那王に与えました。
しかし、それを新羅人が道を遮って奪ってしまいました。この二つの国の憎しみ合いは、この時から始まったのです。
原 文
是歲、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于國。蓋先皇之世來朝未還歟。故敦賞蘇那曷叱智、仍齎赤絹一百匹、賜任那王。然、新羅人遮之於道而奪焉。其二國之怨、始起於是時也。 |
任那と新羅 一書(1)
ある話では、
崇神天皇の御代に、額に角のある人が、一隻の船に乗って、越国の笥飯浦(けひのうら)に停泊しました。これにより、この地を角鹿(つぬが)といいます。
その人に、
「どこの国の人か」
と尋ねると、
意富加羅国(おほからくに)の王子で、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、亦の名は于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)といいます。
聞くところによると、日本国に聖皇がいらっしゃるとのこと。そこで、お仕えしようと思ってやってきました。
穴門に着いた時、その国の人で伊都々比古(いつつひこ)と名乗る人が
「我こそがこの国の王である。我ほ他に王はいない。だから他の所に行ってはならない。」
と命じました。
ところが、その人をよく見定めておりましたところ、決して王などではないことがわかりました。よって、すぐに引き返しました。
とはいえ海路もなにも知りませんから、嶋や浦に寄りながら、北の海から出雲国を経て、ここに着いたのです。
といいました。
この時まさに、崇神天皇は崩御されしまわれましたが、そのまま留まり、垂仁天皇に仕えて、三年間お仕えしました。
天皇が、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に、
「お前は国に帰りたいか?」
とお尋ねになられますと、
「はい。とても帰りたいと思います。」
とお答えした。
天皇は詔して、阿羅斯等(あらしと)に
「お前が道に迷わずに、もっと早く来ておれば、先の皇にお会いでき、お仕えできたいたであろうがのう。そこで、お前の国の名を改めて、御間城(みまき)天皇の御名を戴いた国名にするがよい。」
とおっしゃいました。
そして、赤織絹を阿羅斯等に与えて、本国に帰されました。其の国を彌摩那國(みまなのくに)といううのは、これが由縁です。
そこで、阿羅斯等は、賜った赤絹を自分の国の蔵に収めました。新羅人がこれを聞きつけて、兵を起こしてやってきて、その赤絹を全部奪ってしまいました。これが、この二国が憎しみ合う始まりなのです。
原 文
一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海之、經出雲國至於此間也。」是時、遇天皇崩、便留之、仕活目天皇逮于三年。天皇、問都怒我阿羅斯等曰「欲歸汝國耶。」對諮「甚望也。」天皇詔阿羅斯等曰「汝不迷道必速詣之、遇先皇而仕歟。是以、改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。」仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。故、號其國謂彌摩那國、其是之緣也。於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。 |
ひとことメモ
笥飯浦(けひのうら)・角鹿(つぬが)
角鹿(つぬが)は、福井県の敦賀(つるが)の古称。敦賀市にある気比神宮(けひじんぐう)あたりが、笥飯浦(けひのうら)だとされています。
額に角がある人というのは、そう見えるような帽子をかぶっていたとか?
意富加羅国
意富加羅国とは?大韓国?いえいえ、御間城(崇神天皇)の名を戴き、彌摩那国(みまなのくに)に改称したと言ってますから、任那国なのでしょう。任那国という大きなまとまりの中の意富加羅国という小国のイメージでしょうかね。
一説には、御間城(崇神天皇)の名を戴いたのではなく、御間城天皇は任那の名を戴いたのではないか、すなわち崇神天皇は任那国からやってきたのではないか、などともいわれています。
比売語曽社の神
任那と新羅 一書(2)
また、ある話では、、、
初め、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祖国にいた時このと。
黃牛に農具を背負わせて田にある家屋に行こうとていました。ところが黃牛が急にいなくなりました。そこで、牛の足跡を追ってゆくと、郡役場の中で留まっていました。
その時、一人の老人が現れて、
「あなたが探しておられる牛は、この郡役場に入りましたよ。そして、役場の長が、
『牛が背負っている物から推察するに、きっと殺して食べるつもりであろう。もしも牛の持ち主が来たなら、別のもので償いをすればよい。』
と言って、殺して食べてしまいました。
もし、郡公たちがやってきて牛の代わりに何が欲しいか問われたら、財物を求めてはいけません。郡でお祭りしている神が欲しいとおっしゃいなさい。」
と教えました。
間もなく郡公がやってきて、
「牛の代わりに何が欲しいか?」
と尋ねたので、老父に教えられたように答えました。その祭神は、白石でした。すなわち、牛の代わりにその白石を得たのです。
その白石を持ち帰り、寝室の中に置いて置きました。するとその神石は美しい少女になりました。阿羅斯等は大いに喜んで、交わろうと思いました。しかし、阿羅斯等がその場を離れた隙に、少女は姿を消してしまいました。
阿羅斯等は大変驚いて、妻に、
「少女はどこへ去ったのか?」
と尋ねると、
「東の方へ向かいました。」
と答えました。
阿羅斯等は、すぐに追い求めました。そして、遠く海を越えて日本国までやって来ました。
探していた少女は、難波着いて、比賣語曾社(ひめごそのやしろ)の神となられました。また、豊国の国前郡(みちのくちのこほり)に来られて、比賣語曾社の神となられました。
今、この二か所でお祭りされています。
と伝わっています。
原 文
一云、初都怒我阿羅斯等、有國之時、黃牛負田器、將往田舍。黃牛忽失、則尋迹覓之、跡留一郡家中、時有一老夫曰「汝所求牛者、於此郡家中。然郡公等曰『由牛所負物而推之、必設殺食。若其主覓至、則以物償耳』卽殺食也。若問牛直欲得何物、莫望財物。便欲得郡內祭神云爾。」俄而郡公等到之曰「牛直欲得何物。」對如老父之教。其所祭神、是白石也、乃以白石授牛直。因以將來置于寢中、其神石化美麗童女。於是、阿羅斯等大歡之欲合、然阿羅斯等去他處之間、童女忽失也。阿羅斯等大驚之、問己婦曰「童女何處去矣。」對曰「向東方。」則尋追求、遂遠浮海以入日本國。所求童女者、詣于難波、爲比賣語曾社神、且至豐國々前郡、復爲比賣語曾社神。並二處見祭焉。 |
ひとことメモ
難波の比賣語曾社
いくつかの候補がありますが、有力なのは一番上です。
- 大阪市東成区東小橋の比賣許曾神社。祭神は下照姫命。
- 大阪市中央区の高津宮摂社の比売古曽神社。祭神は下照姫命
- 大阪市平野区の赤留比売命神社。祭神は赤留比売命。
- 大阪市淀川区の姫島神社。祭神は阿迦留姫命。
比賣許曾神社が有力なのですが、祭神は下照姫命となっています。下照姫命は大国主命の娘ですから、ちょっと違いますよね。
古事記の応神天皇の段に、新羅の天日矛の妻「アカルヒメ」が難波に逃げてきたという、よく似た説話があり、下2つの神社は、その「アカルヒメ」を祀っています。
豊国の比賣語曾社
大分県の国東半島の東端沖に浮かぶ小島「姫島」に比売語曽神社があります。
祭神は比売語曽神。バッチリです。
ちなみに、摂津風土記には、難波に到着した女神は、もとの住まいの地名「姫島」を、難波の新しい住まいにも名付けたとあるらしいです。
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