日本書紀|第十一代 垂仁天皇③|天日槍の来朝

2020年10月29日

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天日槍(あめのひぼこ)の来朝

垂仁3年(前27)

春 三月 新羅の王子の天日槍(あめのひほこ)が、帰属を願って来朝しました。持ってきたものは、

  • 羽太玉(はふとのたま)一箇
  • 足高玉(あしたかのたま)一箇
  • 鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)一箇
  • 出石刀子(いづしのかたな)一口
  • 出石桙(いづしのほこ)一枝
  • 日鏡(ひのかがみ)一面
  • 熊神籬(くまのひもろき)一具

の、合わせて七つの物でした。これらは但馬国の蔵に収めて、神宝としました。

 原 文

三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石刀子一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。

 

天日槍の来朝 一書

ある話では、、、

初め天日槍は、船に乗り播磨国に上陸し、穴粟邑に住んでいました。時に天皇が、三輪君の祖の大友主(おほともぬし)と倭直(やまとのあたひ)の祖の長尾市(ながをち)を播磨に派遣して、天日槍に

「お前は誰だ。どこの国の人か。」

と詰問させました。

天日槍は、

「私は新羅の王の子ですが、日本国に聖皇がいらっしゃると聞きましたので、弟の知古(ちこ)に国を譲り、自分はお仕えするためにやってきました。」

と答えました。その時に持参した貢物は、

  • 葉細珠(はほそのたま)
  • 足高珠(あしたかのたま)
  • 鵜鹿々赤石珠(うかかのあかしのたま)
  • 出石刀子(いづしのかたな)
  • 出石槍(いづしのほこ)
  • 日鏡(ひのかがみ)
  • 熊神籬(くまのひもろき)
  • 膽狹淺大刀(いささのたち)

の合わせて八つの物でした。

天皇は天日槍に詔して、

「播磨國の穴粟邑と淡路島の出浅邑(いでさのむら)の二邑であれば、どこに住むかは任せようぞ。」

とおっしゃいました。

天日槍は、

「私めが住むところは、、、もし天恩を垂らしめし、わたくしめの気持ちをお聞きいただけるとするならば、願わくば、わたくしめ自ら諸国をめぐって、心のとまる場所を賜りたいと存じまする。」

と平身低頭の態度で申し上げました。すると、天皇はお許しになりました。

 原 文

一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰「汝也誰人、且何國人也。」天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」仍貢獻物、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狹淺大刀、幷八物。仍詔天日槍曰「播磨國宍粟邑、淡路島出淺邑、是二邑、汝任意居之。」時、天日槍啓之曰「臣將住處、若垂天恩聽臣情、願地者、臣親歷視諸國則合于臣心欲被給。」乃聽之。

 ひとことメモ

出石と赤石

持ってきた宝物の名称に、「出石」や「赤石(明石)」など兵庫県(播磨・但馬)の地名を見ることが出来ます。

出石観光協会によると、出石の由来は、天日矛が持ってきた神宝が由来だといってます。

明石市役所によると、林崎松江海岸の沖に沈んでいる「赤石(あかいし)」が由来だとも、夜に西から見ると明るい土地だったからだとも。いずれにしても神宝とは関係なさそうです。

宍粟邑

播磨風土記には、この宍粟邑(兵庫県宍粟市)を舞台として、天日槍と葦原志許乎命(大国主)との争いの様子が描かれています。

大国主神は神代に登場する神なんですが、、、もう、時代や世代を超越している、、、

それはさておき、上陸地から宍粟邑までの、いくつかの地名を挙げておきます。

宇頭川

天日槍の到着地。揖保川と林田川の合流付近とされます。

粒丘

天日槍を警戒した葦原志許乎命が急いで川を遡り北上する途中、小山で食事をしましたところ、口から飯粒を落としたので「粒丘(いいぼおか)}と称されたといいます。これが「揖保(いぼ)」の由来でもあるようです。粒丘は中臣印達神社鎮座地に比定されています。

川音村

天日槍が滞在したとき「川の音がとても高い」と言ったことから「川音村」と名付けられたといわれます。現在の山崎町川戸あたりとされています。

奪谷

葦原志許乎命と天日槍が谷を奪い合ったといいます。安志峠から西へ入った谷合いとされます。

高家

天日槍命が「この村の高さは他の村よりも高い」と言ったので「高家(たかや)」といわれるようになったとされます。山崎町庄能から山崎町山崎のあたりではないかといわれています。

伊奈加川

葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時に、この川でいななく馬に遭遇したことから命名されたといいます。菅野川に比定されています。

波加村

国占め争いのとき、天日槍命が先に着き、伊和大神(大国主神)は後から来ました。このとき大神が「対策を図りもしなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるようになったとか。

などなど、、、

田道間守の誕生

天日槍は、菟道河(宇治川)を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)に入って、しばらく住みました。

さらに、近江から若狭国(わかさのくに)を経て、西の但馬国に到着し、そこに住居を定めました。

このようなことから、近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従者だった人々なのです。

天日槍は但馬国の出嶋(いづし=出石)の人で太耳の娘の麻多烏(またを)を娶って、但馬諸助(たぢまもろすく)を生みました。

諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生み、日楢杵は清彦(きよひこ)を生み、清彦は田道間守(たぢまもり)を生みました。

と、伝わっています。

 原 文

於是、天日槍、自菟道河泝之、北入近江國吾名邑而暫住。復更、自近江經若狹國、西到但馬國則定住處也。是以、近江國鏡村谷陶人、則天日槍之從人也。故天日槍、娶但馬國出嶋人太耳女麻多烏、生但馬諸助也。諸助、生但馬日楢杵。日楢杵、生淸彥。淸彥、生田道間守也。

 ひとことメモ

近江国の吾名邑・鏡村

天日槍は、近江国の吾名邑に滞在し、陶人を残し置いて、若狭国、但馬国へ向かったということです。

では、吾名邑の候補地はというと、いくつかあります。どれもが「なるほど」と思わせるものです。いずれにしても、これらのすべてが天日槍に関係する土地であるのは間違いなさそうですよ。

滋賀県草津市穴村町

穴村町に安羅(やすら)神社があります。現在、その境内に「天日槍命暫住之聖蹟」が立てられています。そもそも安羅は韓国の地名で「あら」と読みます。

天日槍とともに来朝した人々の子孫が、故郷を偲んで天日槍を祀ったのが始まりだろうといわれています。

竜王町の苗村神社あたり

苗村(なむら)は吾名邑(あなむら)が訛ったものといわれています。さらに、苗村神社は鏡山の東麓に鎮座しています。さらにさらに、隣町は「須恵」。「史蹟 鏡山陶部址」の石碑が立っています。

ここには、まさにアナムラ・カガミ・スエが揃ってますね。

米原市間田(はざまた)

ホツマツタエに、「天日槍は、お供の末人をハザマタに残して、出嶋へ行き、、、」とあり、末人=陶人を残し置いたというところが一致します。

米原市顔戸

「和名抄」の坂田郡阿那郷の項に「近江国吾名邑」と記されています。そして、その「坂田郡阿那郷」は、現在の米原市顔戸あたりだそうです。

というわけで、米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立っています。

ここには続きがあり、、、

この「阿那郷」が後世には「息長郷」となりました。神功皇后との関連性が見られます。

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