日本書紀|第十一代 垂仁天皇④|狭穂彦王の反乱
狭穂彦王の企て
垂仁4年(前26)
九月二十三日 皇后(狭穂姫)の同母兄の狹穂彦王(さほひこのみこ)は、謀反を起こして国家を覆そうと思いました。
そこで、皇后が家で寛いでいる時をうかがって、
「おまえは、兄と夫とどちらを愛しているのか?」
といいました。
皇后は、質問の趣旨が分からずに、
「兄上の方を愛しております。」
と答えられました。すると、狭穂彦王は皇后に誘いかけて、
「そもそも、容姿をもって人に仕えるている者は、その美貌が衰えると寵愛も緩む。今、天下には美人が多く、それぞれが寵愛を求めて競い合っている。
しかし、どうしていつまでも美貌を保つことができようか。
そこで私の願いというのは、、、私が皇位に就き、おまえと天下に君臨すること。枕を高くして、長く百年も過ごすなんて実に快いことではないか。
どうか兄のために天皇を殺してくれないか。」
と言いました。そうして短剣を取り皇后に授けて、
「この短剣を衣服の中に隠して、天皇が寝ているときに、首を刺して殺しなさい。」
と言いました。
皇后は、恐れ慄き、どうしたらよいのかわかりませんでした。しかし、兄の決心を見ると、うまく諫めることもできません。
そこで、その短剣を受け取り、ひとり隠すところもなく、衣服の中に入れておきました。
いつかは兄を諫める気でおられたのでしょうか。。。
原 文
四年秋九月丙戌朔戊申、皇后母兄狹穗彥王、謀反、欲危社稷、因伺皇后之燕居而語之曰「汝孰愛兄與夫焉。」於是、皇后不知所問之意趣、輙對曰「愛兄也。」則誂皇后曰「夫、以色事人、色衰寵緩。今天下多佳人、各遞進求寵、豈永得恃色乎。是以冀、吾登鴻祚、必與汝照臨天下、則高枕而永終百年、亦不快乎。願爲我弑天皇。」仍取匕首、授皇后曰「是匕首佩于裀中、當天皇之寢、廼刺頸而弑焉。」皇后於是、心裏兢戰、不知所如、然視兄王之志、便不可得諫。故受其匕首、獨無所藏、以著衣中。遂有諫兄之情歟。 |
ひとことメモ
兄と妹
夫と兄とどちらを愛しているのか、、、
この愛しているの意味がどれほどのことか分からないのですが、古代のことだから男女の恋愛の意味かな?と思ったりします。
古代においては、兄と妹の結婚は多かったようですが、それは母親が異なる兄妹はOK、父親が異なる場合は例外的にOK、同じ両親の兄妹はNGだったようです。
では、狭穂彦と狭穂姫の場合はどうかというと、NGのパターンなのです。
おなり神
沖縄・奄美地方の信仰に「おなり神」というのがあります。
これは、妹が兄を霊的に守護するという信仰です。
ときに、霊的関係性は、夫と妻との関係性よりも、兄と妹の関係性の法が強力だとします。例えば、男が病気になったとき、妻ではなく妹が呼ばれて祈祷する、あるいは、男が戦場に赴くとき、妻ではなく妹の髪をお守りとして渡すというようなイメージです。
この信仰、沖縄地方の信仰だといいましたが、古代においては邪馬台国の卑弥呼と弟の関係性が、この信仰に近いと言われています。
そういう意味で、狭穂彦は狭穂姫の霊的力が欲しかったのかも、、、と思ったりします。
可哀想な狭穂姫
垂仁5年(前25)
十月一日 天皇は来目に行幸され、高宮(たかみや)におられました。
天皇は、皇后の膝を枕にして昼寝をされておられました。皇后は、事を成していないことに空しさを感じており、兄の謀反はこの時しかないと思いました。
すると、涙が流れて天皇のお顔に落ちました。天皇はそこで目を覚まされて、
「私は今夢を見た。錦色の小さな蛇が首にまつわり、大雨が狭穂から降ってきて顔をぬらすのだ。これは、何の前兆だろうか。。。」
とおっしゃいました。
皇后は謀反のことを隠しておくことはできないと覚り、おそれかしこまり地に平伏して、兄の謀反の状況を申し上げました。そして奏上して
「わたくしめは、兄の意志を違えることもできず、さりとて、天皇の恩愛にも背くこともできません。兄の罪を訴えますれば兄を滅ぼすことになります。でも、訴え出なければ国家を傾けることになります。
あるときは恐れ、またあるときは悲しみました。伏しては泣き、仰いでは泣きました。進退きわまって血を吐くほど泣きました。昼も夜も心はふさぎ、でもそれを言葉にすることはできません。
今日たまたま、天皇が、わたくしめの膝の上でお眠りになられました。そこで、わたくしめが思ったことは、、、
もしここに狂乱の女がいて 兄の志を成し遂げたなら、まさにこの時、労せずして成功するのだろうな、、、
というものでございました。そのような思いが消えぬうちに、自然と涙が流れ、すぐ袖で拭いましたが、袖からあふれた涙が天皇のお顔を濡らしてしまいました。
今日のお夢はこれが故のことでしょう。錦の小さな蛇は、兄がわたくしめに授けた短剣、大雨が急に降ってきたのは、わたくしめの涙でございましょう。」
と申し上げました。すると天皇は、
「これはおまえの罪ではあるまいに。」
とおっしゃられて、近隣の縣の兵士を発して、上毛野君の遠祖八綱田に命じて、狭穂彦王を撃たせになられました。
原 文
五年冬十月己卯朔、天皇、幸來目居於高宮、時天皇枕皇后膝而晝寢。於是、皇后、既无成事而空思之「兄王所謀、適是時也。」卽眼淚流之落帝面、天皇則寤之、語皇后曰「朕今日夢矣、錦色小蛇、繞于朕頸、復大雨從狹穗發而來之濡面。是何祥也。」皇后、則知不得匿謀而悚恐伏地、曲上兄王之反狀、因以奏曰「妾、不能違兄王之志、亦不得背天皇之恩。告言則亡兄王、不言則傾社稷。是以、一則以懼、一則以悲、俯仰喉咽、進退而血泣、日夜懷悒、無所訴言。唯今日也、天皇枕妾膝而寢之、於是、妾一思矣、若有狂婦、成兄志者、適遇是時、不勞以成功乎。茲意未竟、眼涕自流、則舉袖拭涕、從袖溢之沾帝面。故今日夢也、必是事應焉、錦色小蛇則授妾匕首也、大雨忽發則妾眼淚也。」天皇謂皇后曰「是非汝罪也。」卽發近縣卒、命上毛野君遠祖八綱田、令擊狹穗彥。 |
ひとことメモ
久目高宮
久米県の県庁といったとこでしょうか。
橿原神宮の南に、久米御縣神社があります。
久米御縣の中心に神社を創建したとすると、ここが高宮だったのかもしれませんね。
狭穂から雨が
当然ながら、狭穂から雨=狭穂姫の涙を暗に呈示しているわけですが、奈良市に佐保と称されるエリアがあります。
名門奈良県立奈良高校や、名門なら育英高校、そして名門奈良教育大付属中学などがあるエリアです。
その一角に「狭岡神社」がありまして、ここには狭穂姫がその美しい姿を映したという鏡池が伝わっています。
狭穂彦王と狭穂姫の最期
時に狭穂彦王は、軍を起こしてこれを防ぎ、稲を積んで城を作りました。それは堅牢で破ることができませんでした。これを稲城(いなき)といいます。
狭穂彦王は月が変わっても降伏しませんでした。
皇后は悲しんで、
「私は皇后でありますが、兄が滅んでしまっては、何の面目あって天下に臨むことができましょうや。」
と言われて、皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱いて、兄の稲城に入られました。
天皇は、さらに軍勢を増やして、城を取り囲みました。そして、城の中に向かって、
「すぐに皇后と皇子を出せ。」
と命じられました。しかし、出てきませんでした。
そこで、将軍八綱田は火を放ち、城を焼きました。すると、皇后は皇子を懐に抱いて城から出てきました。そして、天皇に願い出ました。
「わたくしめが兄の城に逃げ込んだのは、わたくしめと皇子に免じて、兄の罪が許されることがあるやもしれないと思ったからです。
でも今、兄の罪は許されません。ですから、わたくしめにも罪があることを知りました。なんで捕まることを望みましょうや。首をくくって死ぬだけです。
ただ、わたくしめは死んでも天皇の御恩は決して忘れません。願わくば、わたくしめが司っておりました後宮のことは、いいお相手にお授けください。
丹波国に五人の婦人がいます。皆さん貞潔な方々です。この方々は、丹波道主王の娘達です。道主王は、開化天皇の孫の彥坐王(ひこいますのみこ)の子です。ある話では、彥湯産隅王(ひこゆむすみのみこ)の子ともいう。これらの女性を後宮に入れて、後宮の人数を補充してください。」
天皇は、これをお聞き入れになられました。
この時、火が燃え上がり、城は崩れ、軍勢は悉く逃げ去り、狭穂彦王と妹は城の中で一緒に死にました。
天皇は、將軍八綱田の功を賞して、倭日向武日向彥八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)の名を授けられました。
原 文
時狹穗彥、興師距之、忽積稻作城、其堅不可破、此謂稻城也、踰月不降。於是、皇后悲之曰「吾雖皇后、既亡兄王、何以面目、莅天下耶」則抱王子譽津別命、而入之於兄王稻城。天皇更益軍衆、悉圍其城、卽勅城中曰「急出皇后與皇子。」然不出矣。則將軍八綱田、放火焚其城、於焉、皇后令懷抱皇子、踰城上而出之。因以奏請曰「妾始所以逃入兄城、若有因妾子免兄罪乎。今不得免、乃知、妾有罪。何得面縛、自經而死耳。唯妾雖死之、敢勿忘天皇之恩。願妾所掌后宮之事、宜授好仇。其丹波國有五婦人、志並貞潔、是丹波道主王之女也。道主王者、稚日本根子太日々天皇之孫、彥坐王子也。一云、彥湯産隅王之子也。當納掖庭、以盈后宮之數。」天皇聽矣。時火興城崩、軍衆悉走、狹穗彥與妹共死于城中。天皇、於是、美將軍八綱田之功、號其名謂倭日向武日向彥八綱田也。 |
ひとことメモ
稲城
稲の藁の束を家の周囲に積み上げて胸壁とし、矢や石などを防いだものだといいます。
こんなのが堅牢なのか?と思いますよね。逆に燃えやすくて、火矢を放てば一発だと思うのですが、、、
そんな素人考えを打ち砕くが如く、江戸時代の学者「本居宣長」先生が古事記伝において、次のように解説してくれてます。
稲を置く所は盗難予防などのために、垣・みぞを構築して堅牢に構えたところから、稲城とは「堅固な備えのある砦」という意味で、いわゆる比喩的表現なのだよ。
(藁を積み上げるなんて、短絡的すぎるのだよ君たちは。)
なるほどですね。
誉津別命
生まれてすぐに燃え盛る炎を見たこの赤ちゃんは、30歳過ぎまで言葉が話せない人になってしまうのです。
可哀想です。後で、出てきます。
丹波道主王
崇神天皇が地方の平定のために派遣した四道将軍の一人。
開化天皇の皇子である彦坐王の子で、狭穂彦・狭穂姫の兄妹とは、異母兄弟の間柄です。
ちなみに、父の彦坐王は多くの皇子を持ち、多くの氏族の祖となっています。こんなことから、この一族は朝廷にも匹敵する勢力を持っていたのではないかと想像されます。
そうであるならば、その一族の中から狭穂彦王のような反乱を企てる人が出てきても不思議ではないと感じます。
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