日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑤|相撲の発祥・丹波の姫たち

2020年10月29日

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野見宿禰

垂仁7年(前23)

七月七日 近習の人が、

當麻邑(たぎまのむら)にという勇猛な者がおり、名を當摩蹶速(たぎまのくゑはや)といいます。その人は、力が強く、固い角を砕いたり、鉤を真っすぐに伸ばしたりできるのです。

人前でも公然と、この世の中を探しても、自分に並ぶような力を持つ者はいないだろうよ。いれば会ってみたい。そして、生死を賭けた力比べをしたいものだ、と言っております。」

と申し上げました。それを聞かれた天皇は、群卿に詔して

「朕が聞くところによると、天下の力士であるということだ。これと比べられる人はいるのかな。」

とおっしゃいました。一人の臣が、

「私の聞くところでは、出雲国に勇士がいるのこと。野見宿禰(のみのすくね)というそうです。試しに召し出して、これと蹶速を当たらせてはいかがかと。」

と申し上げた。その日のうちに、倭直(やまとのあたひ)の祖の長尾市(ながをち)を派遣して、野見宿禰を呼び出されたので、野見宿禰が出雲からやって来ました。

すぐに、當摩蹶速と野見宿禰に捔力を取らせました。二人は向かい合って立ち、それぞれが足を挙げて蹴り合いました。當摩蹶速は脇骨を蹴り折られ、また腰を踏み折られて、殺されてしまいました。

そこで天皇は、當摩蹶速の土地を没収し、その悉くを野見宿禰にお与えになられました。これが、その邑に腰折田(こしをれた)が在る由縁です。

野見宿禰は、そのまま留まって、朝廷にお仕え申し上げました。

 原 文

七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰『於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」天皇聞之、詔群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。

 ひとことメモ

日本初の天覧相撲

この両者の取り組みは、桜井市の大兵主神社(現:穴師兵主神社)の神域「カタヤケシ」で行われました。

記録に残る限り、日本初の勅命天覧相撲で、これを以って国技「相撲」の発祥とされています。

今そこには相撲神社があり、この両者が祀られています。

當麻邑の當摩蹶速

當麻邑は、奈良県葛城市當麻町のことらしいです。二上山の麓です。當麻町には牡丹で有名な當麻寺があります。

當摩蹶速の「蹶」は「蹴」で、蹴るのが早くて強烈だったのでしょう。現在の相撲では「胸や腹への蹴り」は禁じられているのですが、当時の相撲は総合格闘技だったのかもしれないですね。

ちなみに、当麻山口神社の一の鳥居北側付近に、「蹶速の屋敷跡」と言われているところがあります。また、當麻町にある相撲館の玄関横には「當摩蹶速の塚」もあり、地元の人々に愛されていることが判ります。

 

丹波道主王の娘たち

垂仁15年(前15)

二月十日 丹波道主王の五人の娘を後宮に入れられました。

  • 姉を日葉酢媛(ひはすひめ )
  • 次女を渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりびめ)
  • 三女を眞砥野媛(まとのひめ)
  • 四女を薊瓊入媛(あざみにいりびめ)
  • 五女を竹野媛(たかのひめ)

といいます。

八月一日 日葉酢媛命を皇后とし、皇后の妹の三人を妃とされました。ただ、竹野媛だけは、容姿が醜かったために国元に返されました。竹野媛はこれを羞じて、葛野(かづの)で、自ら輿から落ちて死にました。

そこで、この地を堕国(おちくに)といいます。今、弟国(おとくに)というのはこれが訛ったものなのです。

皇后は、三男二女をお生みになり、

  • 第一子は五十瓊敷入彥命(いにしきいりびこのみこと)
  • 第二子は大足彥尊(おほたらしひこのみこと)
  • 第三子は大中姫命(おほなかつひめのみこと)
  • 第四子は倭姫命(やまとひめのみこと)
  • 第五子は稚城瓊入彥命(わかきにいりびこのみこと)

といいます。

妃(きさき)の渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりびめ)は、

  • 鐸石別命(ぬてしわけのみこと)
  • 膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)

をお生みになりました。

妃の薊瓊入媛(あざみにいりひめ)は、

  • 池速別命(いけはやわけのみこと)
  • 稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)

をお生みになりました。

 原 文

十五年春二月乙卯朔甲子、喚丹波五女、納於掖庭。第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰眞砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛。秋八月壬午朔、立日葉酢媛命爲皇后、以皇后弟之三女爲妃。唯竹野媛者、因形姿醜、返於本土。則羞其見返葛野自墮輿而死之、故號其地謂墮國、今謂弟國訛也。皇后日葉酢媛命、生三男二女、第一曰五十瓊敷入彥命、第二曰大足彥尊、第三曰大中姬命、第四曰倭姬命、第五曰稚城瓊入彥命。妃渟葉田瓊入媛、生鐸石別命與膽香足姬命。次妃薊瓊入媛、生池速別命・稚淺津姬命。

 

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