日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑥|誉津別命と白鳥・伊勢の宮
誉津別命と白鳥
垂仁23年(前7)
九月二日 天皇は群卿に、
「誉津別命(ほむつわけのみこと)は、既に三十歳になり、髭もたいそう伸びたのに、赤子のように泣いてばかりで、言葉を話さないのは何故か。その原因を役人で協議せよ。」
とおっしゃいました。
十月八日 天皇とが大殿の前に立ち、誉津別王が付き従っておりました。そこに白鳥が鳴きながら大空を渡りました。
すると、皇子が白鳥を仰ぎ見て
「あれは何だ?」
と言いました。
天皇は、皇子が白鳥を見て話されたことを知って大変喜ばれ、近習に詔して、
「誰かあの鳥を捕らえてくる者はいないか。」
とおっしゃいました。
その時、鳥取造の祖の天湯河板挙(あめのゆかはたな)が
「私が必ずや捕まえて、献上いたしましょう。」
と申し出ました。
天皇は湯河板拳に勅して、
「お前がかの鳥を捕まえて献上できれば、必ずや厚く恩賞を与えようぞ。」
とおっしゃいました。
湯河板拳は、遠く白鳥が飛んで行った方向を望み、出雲まで追いかけて行って捕まえました。あるいは、但馬国で捕らえたとも伝わります。
十一月二日 湯河板拳が白鳥を献上すると、誉津別命は白鳥と遊んでいるうちに、言葉を話すことができるようになりました。
これによって、湯河板拳には厚く恩賞が与えられ、鳥取造という姓(かばね)が与えられました。また、鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかひべ)、誉津部(ほむつべ)が定められました。
原 文
廿三年秋九月丙寅朔丁卯、詔群卿曰「譽津別王、是生年既卅、髯鬚八掬、猶泣如兒、常不言、何由矣。因有司而議之。」冬十月乙丑朔壬申、天皇立於大殿前、譽津別皇子侍之。時有鳴鵠、度大虛、皇子仰觀鵠曰「是何物耶。」天皇則知皇子見鵠得言而喜之、詔左右曰「誰能捕是鳥獻之。」於是、鳥取造祖天湯河板舉奏言「臣必捕而獻。」卽天皇勅湯河板舉板舉、此云拕儺曰「汝獻是鳥、必敦賞矣。」時湯河板舉、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。或曰、得于但馬國。
十一月甲午朔乙未、湯河板舉、獻鵠也。譽津別命、弄是鵠、遂得言語。由是、以敦賞湯河板舉、則賜姓而曰鳥取造、因亦定鳥取部・鳥養部・譽津部。 |
ひとことメモ
天湯河板拳
天湯河板挙は、神皇産霊神の子の角凝魂命の子の伊佐布魂命の孫。
禊の水の神という説や、金属精錬の神という説があります。
天照大神を伊勢に祭る
垂仁25年(前5)
春 二月八日 阿倍臣の遠祖の武渟川別(たけぬなかはわけ)、和珥臣(わにのおみ)遠祖の彦国葺(ひこくにぶく)、中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖の大鹿嶋(おほかしま)、物部連(もののべのむらじ)の遠祖の十千根(とをちね)、大伴連(おほとものむらじ)の遠祖の武日(たけひ)の五大夫(いつたりのまへつきみたち)に
「我が先帝の御間城入彥五十瓊殖天皇は、叡智に優れ、物事に精通し、謙遜深く、自分のことは後回しにし、こまごました政務を整えて、天神地祇をお祭りし、己に克ち自ら勤め、一日一日を慎まれた。これにより人民は富み満足して天下泰平となった。今、まさに朕の世となったわけだが、天神地祇の祭祀をどうして怠ることができようか。」
と詔された。
三月十日 天照大神を豊耜入姫命から離して、倭姫命(やまとひめのみこと)に託しました。
倭姫命は大神を鎮座申し上げる場所を探し求めて宇陀の筱幡(ささはた)に着かれました。そこから引き返してから、近江国、美濃を巡り、伊勢国に至りました。
この時、天照大神は、
「この神風吹く伊勢国は、常世の浪が寄せては返す国である。倭の隣にある美しい国である。この国に居たいと思う。」
と倭姫命に教えられました。
そこで、大神の教えに従って、その祠を伊勢国に建てました。よって、齋宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに建てた。これを磯宮(いそのみや)といいます。すなわち、伊勢国は天照大神が始めて自ら天より降られた所なのです。
原 文
廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彥國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日、五大夫曰「我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇、惟叡作聖、欽明聰達、深執謙損、志懷沖退、綢繆機衡、禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。」
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姬命、託于倭姬命。爰倭姬命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大神誨倭姬命曰「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。 |
ひとことメモ
五大夫
阿部臣・和珥臣・中臣連・物部連・大伴連。この五部族が当時の五大勢力だったのでしょう。
以下、簡単にそれぞれの事績をまとめておきます。
- 武渟川別・・・東海に派遣された四道将軍の一人。
- 彦国葺・・・大彦命とともに、武埴安彦の乱を平定した人。
- 大鹿嶋・・・伊勢宮の斎主に任命された人。
- 物部十千根・・・出雲の神宝の検校を行なったり、石上神宮の神宝の管理を任された人。後に大連に昇格した。
- 大伴武日・・・景行天皇の御代に日本武尊の片腕として東国遠征に従軍した人。
伊勢の宮
崇神天皇の皇女「豊鍬入姫命」によって持ち出されたご神体は、垂仁天皇の皇女「倭姫命」に引き継がれ、宇陀→近江→美濃と巡幸して、ついに伊勢国に落ち着きました。
この巡幸の間、各地に一時滞在したので、後世、そこには神社が創建され「元伊勢」を冠するようになりました。
ちなみに、伊勢の宮の正式社名は「神宮」です。「伊勢神宮」は通称です。ですから、本来なら「伊勢の神宮」とか「伊勢の皇大神宮」というような表現がよろしいのではないかと思います。
斎宮
伊勢神宮に奉仕した「斎王」が住む御所のことです。
天皇の代替わりなどにより斎王がその任を終えると、未婚の皇女の中から亀卜によって新斎王に選ばれて斎宮に派遣されます。これが制度化されたのは、天武天皇の御代だそうです。
平安時代になると、賀茂神社(上下両社あわせて)にも斎王が置かれるようになりました。
伊勢の斎王・賀茂の斎王。ややこしいので、伊勢の斎王は斎宮・賀茂の斎王は斎院と呼んで区別するようになったとか。
ちなみに、日本書記には「五十鈴川の畔に斎宮を建てた、それを磯宮という」とありますが、現在の斎宮跡はもっと北の明和町という町にあります。近くには祓川が流れています。
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