日本書紀|第十一第 垂仁天皇⑦|倭大神の祭祀・出雲の神宝

2020年10月29日

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倭大神の祭祀

ある話では、、、

天皇は倭姬命を御杖として、天照大神に差し上げました。これにより、倭姬命は天照大神を磯城の神聖な橿の木の本にお祭り申し上げました。

その後、神の教えに従って、垂仁26年十月の甲子の日を選んで、伊勢国の渡遇宮(わたらひのみや)にお遷し申し上げました。

この時、倭大神が、穂積臣(ほづみのおみ)の遠祖の大水口宿禰(おほみなくちのすくね)に乗り移り、

「すべての始まりの時に、約束して、

『天照大神は天原のすべてを治めよ。すべての天皇は葦原中国の八十魂神(やそがみのみたま)を治めよ。我は親(みづか)ら大地官(大地の神)を治める。』

とおっしゃられた。このことは既に定まっていることである。

ところが、先の天皇の崇神天皇は天神地祇は祭祀したとはいえども、その根源を細かく探ることなく、枝葉のところだけで簡単に済まされた。ゆえに、崇神天皇は短命であったのだ。

そこで、今上天皇であるあなたが、先の天皇の及ばなかったところを悔やんで、謹んで祭れば、あなたの寿命は長く、また、天下太平となるであろう。」

とおっしゃられました。

天皇は、これをお聞きになるや、すぐに中臣連(なかとみのむらじ)の祖の探湯主(くかぬし)に命じて、誰に大倭大神をお祭りさせるのが良いのかを占わせました。すると、渟名城稚姬命(ぬなきわかひめのみこと)と占いに出ました。

そこで、渟名城稚姬命に命じて、神地を穴磯邑(あなしのむら)に定め、大市長岡岬(おほいちのながをかのさき)にお祭りしました。

しかし、渟名城稚姬命は全身が痩せて衰弱したため、お祭りすることができなくなりました。そこで、大倭直(おほやまとのあたひ)の祖の長尾市宿禰(ながをちのすくね)に命じてお祭りさせた、

と伝わります。

 原 文

一云、天皇、以倭姬命爲御杖、貢奉於天照大神。是以、倭姬命、以天照大神鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢國渡遇宮。是時倭大神、著穗積臣遠祖大水口宿禰而誨之曰「太初之時期曰『天照大神、悉治天原。皇御孫尊、專治葦原中國之八十魂神。我、親治大地官者。』言已訖焉。然先皇御間城天皇、雖祭祀神祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。」時天皇、聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之、誰人以令祭大倭大神。卽渟名城稚姬命、食卜焉。因以、命渟名城稚姬命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。然、是渟名城稚姬命、既身體悉痩弱、以不能祭。是以、命大倭直祖長尾市宿禰、令祭矣。

 ひとことメモ

「崇神天皇の祭祀が中途半端だったからやり直せ」ということで、もう一度祭祀をさせます。

  • 崇神天皇・・・崇神7年(BC91年)。渟名城入姬命に祀らせて失敗。市磯長尾市に祀らせて成功。
  • 垂仁天皇・・・垂仁26年(BC4年)。渟名城稚姬命に祀らせて失敗。長尾市宿禰に祀らせて成功。

崇神天皇での記述は本文で、垂仁天皇での記述は一書です。

ですから、日本書記は本文で、この「失敗と成功」逸話が崇神天皇の御代に起こったこととしつつも、一書で、崇神天応の御代ではなく垂仁天皇の御代に起こったという伝承もあるよ、と挿入したようにも見えますが、

わざわざ、「崇神天皇の祭祀が中途半端だった」と書かれてますから、崇神天皇の御代にもこの出来事が起こったことを前提としてるんですよね。

ここらへんの整合性をとるのは、なかなか難しいです。私にはムリ。

思うに、このような不自然極まりない形で挿入されているという点から、この出来事を強く伝えたかったという意思を感じるということです。

それは、天神と国神、言い換えれば、天孫族と出雲族との間には、相容れない深い深い溝が歴然としてあるのだということなのではないでしょうか。

 

出雲の神宝

垂仁26年(前4)

八月三日 物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)に

「たびたび出雲国に使者を遣わして、その国の神宝を調べさせたが、はっきりとしたことを申しす者がなかった。お前が勅使として出雲へ行き、調べてくるように。」

と命じられた。十千根大連が神宝を調べ、明確に奏上しました。よって、天皇は十千根大連に神宝を管理させました。

 原 文

廿六年秋八月戊寅朔庚辰、天皇勅物部十千根大連曰「屢遣使者於出雲國、雖檢校其國之神寶、無分明申言者。汝親行于出雲、宜檢校定。」則十千根大連、校定神寶而分明奏言之。仍令掌神寶也。

 

兵器を奉献する

垂仁27年(前3)

八月七日 祠官に命じて、兵器を神社に奉献することについて占わせたところ「吉」と出ました。よって、弓矢や太刀を諸々の神社に納めました。

さらにかさねて、神地・神戸を定めて、時を定めてお祀りさせた。

思うに、兵器によって天神地祇を祭るのは、この時に始まったのでしょう。

この年、屯倉を来目邑(くめむら)に設置しました。

 原 文

廿七年秋八月癸酉朔己卯、令祠官卜兵器爲神幣、吉之。故、弓矢及横刀納諸神之社。仍更定神地・神戸、以時祠之。蓋兵器祭神祇、始興於是時也。是歲、興屯倉于來目邑。屯倉、此云彌夜氣。

 

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