日本書紀|第十一代 垂仁天皇⑧|殉死の禁止・皇太子の決め方

2020年10月29日

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殉死の禁止

垂仁28年(前2年)

冬 十月五日 天皇の同母弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が薨去されました。

冬 十一月二日 倭彥命を身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に埋葬しました。このとき、近習の者を集めて、全員を陵の周囲に生き埋めにしました。

数日間は死ぬことができずに、昼夜を通して泣き呻く声が響き、死後は腐臭が漂いました。最後には犬や鳥が集まってきて喰らいました。

天皇は、この呻き声をお聞きになり、心を痛め、群卿に、

「生きている時に寵愛されたからといって、死んだ者に殉じるのは、甚だ悲痛なものである。いかに古くからの慣習であろうとも、善くないものに従う必要があろうか。これからは、殉死を禁止することとする。」

と申された。

 原 文

廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」

 ひとことメモ

身狭の桃花鳥坂

奈良県橿原市鳥屋町にある桝山古墳に比定されています。

桝山というぐらいですから方墳です。しかし、単なる方墳じゃないですよ。

全国最大規模の方墳なのです。

そしてそして。実は、後世に前方部を付け足し、さらに前方後円形に生垣を作って、さも前方後円墳のように見せかけているという、ややこしい方墳なんです。

黄色部分が、元々の方墳。

ほんまかいな~と思われた方々には、標高地図をご覧いただきましょう。

1辺が90m弱、高さ15m、3段丘の方墳がクッキリと浮かび上がりました!

ところがです。

この古墳の表面からは埴輪片が発見されています。あれ?殉死じゃなかったの?となりますよね。

現在、倭彦命の墳墓を桝山古墳に治定することに対して、否定的な意見が多いようですよ。

 

皇太子の決め方

垂仁30年(1年)

正月六日 天皇は、五十瓊敷命(いにしきのみこと)と大足彦尊(おほたらしひこのみこと)に、

「お前たち、自分の願いの物を言いなさい。」

と尋ねられました。

兄王は、

「弓矢が欲しい。」

と答え、弟王は

「皇位が欲しい。」

と答えました。そこで、天皇は

「よし。ではそれぞれ願い通りにしてあげよう。」

とおっしゃられ、五十瓊敷命に弓矢をお与えになり、大足彥尊に詔して、

「お前は、必ず朕の皇位を継ぎなさい。」

とおっしゃいました。

 原 文

卅年春正月己未朔甲子、天皇詔五十瓊敷命・大足彥尊曰「汝等、各言情願之物也。」兄王諮「欲得弓矢。」弟王諮「欲得皇位。」於是、天皇詔之曰「各宜隨情。」則弓矢賜五十瓊敷命、仍詔大足彥尊曰「汝必繼朕位。」

 ひとことメモ

こんな決め方でいいの?ってな感じですが、まさか本当にこんな決め方をしたわけではないと思います。

日本書記編纂時は儒教の時代。上下関係が厳しくルール化されていく時代です。家督の継承は長男があたりまえとなっていたはず。

儒教を重んじる中国や朝鮮の人々からすると、国弟が家督(皇位)を継ぐことに違和感があったのでしょう。

しかし、古代日本では末子継承の慣習がありました。ですから、海外向けに何か理由を付けて説明をしておく必要があったのだと思います。

 

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