日本書紀|第十一第 垂仁天皇⑨|埴輪の誕生・山背の姫・池の造営
埴輪の誕生
垂仁32年 (後3)
七月六日 皇后の日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)ある話では、日葉酢根命(ひはすねのみこと)と云うが薨去されました。
埋葬するまでに何日もかかったのですが、、、それは、、、
埋葬に際して、天皇は群卿に、
「殉死の慣習は、以前に禁止した。今まさに葬儀を行うのだが、どのようにすればよいだろうか。」
と問われたので、野見宿禰(のみのすくね)が
「君主の陵墓に生きた人を埋めてしまうのは、よくないことです。どうして後の世にまで伝えることができましょうや。願わくば、いい方法を考えて奏上したく思います。」
と進言しました。
そして使者を遣わして、出雲国の土部(はじべ)百人を召喚して、自ら土部を指導して埴(粘土)を取って人や馬、その他の種々の物の形を作って、天皇に献上し、
「今後は、この土物を生きた人に替えて陵墓に立て、後の定めといたしましょう。」
と申し上げました。
天皇は大いにお喜びになられて、野見宿禰に詔して、
「お前の発案は、まことにもって朕の気持ちを潤すものである。」
とおっしゃいました。
そこで、その土物を日葉酢媛命の陵に初めて立てられました。
この土物を埴輪(はにわ)といいます。または、立物(たてもの)といいます。
そして、命令を下されて
「今後は、陵墓には必ずこの土物を立てることとし、決して人を損なってはならない。」
と詔されました。
天皇は、野見宿禰の功績を厚く褒められて、鍛地(土を固める場所)をお与えになり、土部の管理者に任ぜられ、姓(かばね)を改めて、土部臣(はじのおみ)となりました。
これが土部連(はじのむらじ)が、天皇の葬儀を司ることとなった由縁です。ですから、野見宿禰は土部連(土師連)らの始祖なのです。
原 文
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。 |
ひとことメモ
野見宿禰
埴輪を発明した野見宿禰。當麻蹴速と相撲をして蹴り殺した怪力の持ち主の野見宿禰。
野見宿禰のご先祖様はというと天穂日命。14世孫が野見宿禰だといわれています。
天穂日命は、出雲国譲り神話において、最初に出雲へ派遣された天津神。しかし、3年経っても報告に帰ってこなかったので裏切り者的なレッテルを張られました。
国譲り後は、出雲大社の祭主となり、その直系の11世孫が出雲国造となったといいます。
では、野見宿禰の子孫はというと、土師連。古墳の造営を含む天皇葬儀一式を司る氏族です。
大阪府藤井寺市に土師ノ里という地名があります。世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」を構成する数々の古墳が造営された頃の土師氏の拠点だったといわれています。
奈良時代の末期、土師氏に「古人(ふるひと)」という人があり、平城京の西端の菅原邑という土地に住んでいました。
この古人が、桓武天皇に改姓を願い出て、住所に因んで「菅原」という氏が与えられました。
この菅原古人の曾孫が、菅原道真公です。
道明寺天満宮
土師ノ里の近くに道明寺天満宮があります。祭神はもちろん菅原道真公です。この神社は、もともとは土師氏の氏神で、土師神社と称されていました。
今も元宮「土師社」として立派な構えでお祭りされています。祭神は、天穂日命と、その子の天夷鳥命です。
山背の妃
垂仁34年(後5)
三月二日 山背(やましろ)に御幸されました。その時、近習が、
「この国に綺戸邊(かにはたとべ)という美人がおります。容姿は美麗で山城大国(やましろおほくに)の不遲(ふち)の娘です。」
と申し上げました。
天皇は、矛を執って祈い(うけい)をされて、
「必ずその美人に会えるのならば、行く道で瑞兆が現れる。」
とおっしゃいました。
やがて、行宮に着く頃、河の中から大亀が現れ、天皇が矛を挙げて亀を突き刺すと、たちまち亀は白い石になりました。
天皇は近習の者に、
「このことから推測するに、必ずや霊験があろう。」
綺戸邊をお召しになり後宮に入れられましたところ、磐衝別命(いはつくわけのみこと)が生まれました。これは、三尾君(みをのきみ)の始祖です。
そうそう、これより前にも、山背の苅幡戸邊(かりはたとべ)を娶り、三人の男子が生まれています。
- 長男を祖別命(おほぢわけのみこと)
- 次男を五十日足彥命(いかたらしひこのみこと)
- 三男を膽武別命(いたけるわけのみこと)
とおっしゃいます。次男の五十日足彥命は石田君(いしだのきみ)の始祖です。
原 文
卅四年春三月乙丑朔丙寅、天皇幸山背。時左右奏言之、「此國有佳人曰綺戸邊、姿形美麗、山背大國不遲之女也。」天皇、於茲、執矛祈之曰「必遇其佳人、道路見瑞。」比至于行宮、大龜出河中、天皇舉矛剌龜、忽化爲白石。謂左右曰「因此物而推之、必有驗乎。」仍喚綺戸邊納于後宮、生磐衝別命、是三尾君之始祖也。先是、娶山背苅幡戸邊、生三男、第一曰祖別命、第二曰五十日足彥命、第三曰膽武別命。五十日足彥命、是子石田君之始祖也。 |
ひとことメモ
特に、ございません。
用水池の築造
垂仁35年(後6)
秋 九月 五十瓊敷入彥命(いにしきいりびこのみこと)を河内国に遣わして、高石池(たかいしのいけ)と茅渟池(ちぬのいけ)を造らせました。
冬 十月 倭の狹城池(さきのいけ)と迹見池(とみのいけ)を造らせました。
この年 諸国に命じて、多くの用水池溝を造らせました。その数八百ぐらい。農業を主業とするためです。これにより百姓は豊かになり、天下太平となりました。
原 文
卅五年秋九月、遣五十瓊敷命于河內國、作高石池・茅渟池。冬十月、作倭狹城池及迹見池。是歲、令諸國多開池溝、數八百之、以農爲事、因是、百姓富寛天下大平也。 |
ひとことメモ
4つの用水池
高石池
大阪府高石市のどこかにあった?全くわからないようです。
茅渟池
大阪府泉佐野市の「道ノ池」「布池」がそうではないかといわれています。
狹城池
奈良県奈良市佐紀の「水上池」がそうだといわれています。
迹見池
奈良県大和郡山市の池ノ内町にあったとされています。堤跡が残っているそうです。
立太子
垂仁37年(後8)
・正月一日 大足彥尊(おほたらしひこのみこと)を立てて、皇太子とされました。
原 文
卅七年春正月戊寅朔、立大足彥尊、爲皇太子。 |
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