第二代 綏靖天皇①|即位前

神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
第二代 綏靖(すいぜい)天皇

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即位前

神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)は、神日本磐余彥天皇(神武天皇)の第三子で、母は三輪の事代主神(ことしろぬしのかみ)の長女の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)です。

天皇は、容姿がぬきんでて素晴らしく、幼い時から勇敢なご気性を持っていました。壮年になってからは、その風貌は人並み外れて厳つく、武芸も優れ、志は高く沈着剛毅でした。

四十八歳の時、神日本磐余彥天皇が崩御されました。神渟名川耳尊は、父の事を深く大切に思っていましたから、悲しみに暮れるのも仕方ないことでした。特に天皇の葬儀については心を砕いておいででした。

ところで、異母兄の手研耳命は年上ですし、長らく朝廷の政治に関わっていました。ですので、行政を委任して親政を行わせました。

しかし、手硏耳命は、心の持ちようが、もともと仁義に欠けるところがあり、喪に服する期間なのに天子の威力と幸福をほしいままにし、邪心を隠していました。それは、二人の弟の殺害計画です。

この年、太歳己卯(前582年)でした。

 原文

神渟名川耳天皇 神日本磐余彥天皇第三子也。母曰媛蹈韛五十鈴媛命 事代主神之大女也 天皇風姿岐嶷 少有雄拔之氣 及壯容貎魁偉 武藝過人 而志尚沈毅 至卌八歲 神日本磐余彥天皇崩 時 神渟名川耳尊 孝性純深 悲慕無已 特留心於喪葬之事焉 其庶兄手硏耳命 行年已長 久歷朝機 故 亦委事而親之 然其王 立操厝懷 本乖仁義 遂以諒闇之際 威福自由 苞藏禍心 圖害二弟 于時也 太歲己卯

 かんたん解説

媛蹈鞴五十鈴媛命・事代主神

綏靖天皇の母は、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命です。三輪の事代主神の娘です。神の子なのです。

古事記では、事代主神ではなく大物主神の娘となっています。

➡ 古事記:神武⑤|ヤマト建国|橿原宮造営と大物主神の娘

他にも、事代主神と大物主神の事績が一致する話があることから、事代主神と大物主神は同一神であるという説があります。

さらには、大物主神は大国主神の和魂とも。

となれば、媛蹈鞴五十鈴媛命は、そんじょそこらの神の子ではないのです。三輪山に鎮まる大物主神(かつ大国主神、かつ事代主神)の子となります。

さらに、これらの神はヤマト地方で崇拝されてきた神々です。

手研耳命

神武天皇がまだ日向に居た頃に娶った吾平津姫との御子です。神武東征軍に従軍し苦労を重ねたと推察します。ヤマト建国後は、外交に忙しい神武天皇に代わって内政を司っていたことでしょう。

実質上の長男であり政務にも長けた手研耳命ですが、ヤマト建国後に迎えた皇后である ”偉大なる神の子” で ”地元の神の子” 媛蹈鞴五十鈴媛命との御子がいる以上、皇位には就けないのです。

征服した側の氏族は、征服された側の氏族の神も大切にする。そして、その氏族から妃を娶る。そしてそして、生まれた子が後継ぎになることで、原住民族との融和が完成する。

これが、古代の ”シキタリ” だから。

手研耳命が、「あの子達さえいなければ、、、」と思ってしまうのもわからなくもないですよね。実行するかどうかは別にして。。。

古事記には、手研耳命は未亡人となった皇后 ”媛蹈鞴五十鈴媛命” を娶ることで皇位継承権を強固なものしようとしたってな記述がありますよ。

➡ 古事記 : 2代綏靖天皇

手研耳命を誅殺

太歳己卯(前582年)

十一月 神渟名川耳尊と兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、事前にその陰謀を察知して防ぎました。

まず、山陵での葬儀が終わると、弓部稚彥(ゆげのわかひこ)に弓を造らせ、倭鍛部天津眞浦(やまとのかぢべのあまつまら)に眞麛鏃(鹿を射るためのヤジリ)を造らせ、矢部(やはぎべ)に箭(や)を作らせました。

弓矢が出来上がったので、いよいよ神渟名川耳尊は手硏耳命を射殺そうとなさいました。

ある日、たまたま手硏耳命が片丘の大室の中で、一人で大床に横になって寝ていました。この時、渟名川耳尊は神八井耳命に、

「今こそ好機です。そもそも、事は内密にして、実行は慎重に行うのがいいでしょう。ですから、私の陰謀も、誰にも相談していません。今日のことは、私と兄上とで行いましょう。

まずは私が室戸を開けますので、兄上が射殺してください。」

と申し上げました。そこで、二人は揃って進み、神渟名川耳尊が戸を突き開きました。

ところが、神八井耳命は手脚が震え慄いて、矢を射ることができませんでした。そこで、渟名川耳尊が兄の弓矢を取って、手硏耳命を射られました。一発は胸に当たり、次の矢は背中に当たり、遂に射殺しました。

このことによって、神八井耳命は恥じて悩み、弟に服従することにし、皇位を神渟名川耳尊に譲って

「私は、兄ではあるが、意気地なしですから、良い結果は得られないでしょう。しかし、あなたは神のような武勇があり、自ら悪の根源を誅殺されました。

だから、あなたが天皇の位に就いて皇祖の業を受け継がれるのが当然のことだと思います。私はあなたを助けて、天神地祇を祭祀する者となりましょう。」

と申し上げました。

この神八井耳命は多臣(おほのおみ)の始祖(はじめのおや)です。

 原文

冬十一月 神渟名川耳尊 與兄神八井耳命 陰知其志而善防之 至於山陵事畢 乃使弓部稚彥造弓 倭鍛部天津眞浦造眞麛鏃 矢部作箭 及弓矢既成 神渟名川耳尊 欲以射殺手硏耳命 會有手硏耳命於片丘大窨中獨臥于大牀 時渟名川耳尊 謂神八井耳命曰 今適其時也 夫言貴密 事宜愼 故我之陰謀 本無預者 今日之事 唯吾與爾自行之耳 吾當先開窨戸 爾其射之 因相隨進入 神渟名川耳尊 突開其戸 神八井耳命 則手脚戰慄 不能放矢 時神渟名川耳尊 掣取其兄所持弓矢而射手硏耳命 一發中胸 再發中背 遂殺之 於是 神八井耳命 懣然自服 讓於神渟名川耳尊曰 吾是乃兄 而懦弱不能致果 今汝特挺神武 自誅元惡 宜哉乎 汝之光臨天位 以承皇祖之業 吾當爲汝輔之 奉典神祇者 是卽多臣之始祖也

 かんたん解説

人食い天皇?

このように、神渟名川耳尊は勇敢でした。風貌も厳ついとあります。そのあたりが原因なのか、神道集に次のような記述があるようです。

綏靖天皇は朝夕に七人の人間を食べました。

このままではイカンと思ったある臣下が、帝(綏靖天皇)を亡ぼそうと謀り、「近いうちに火の雨が降るでしょう。」と奏上しました。

そして、「火の雨から逃れたい者は岩屋に籠って難を避けよ!」と国中の人々にも警告しました。 諸国に今も残る塚はこの時に人々が作った岩屋の跡です。

そして都の内裏にも岩屋を作り、柱を立てて下から人が上がれないようにして、帝をその中に入れました。

神道集 熊野権現の事より

まさか本当に人肉を食する趣味があったとは思いません。それぐらい恐ろしい顔をした天皇だったのでしょうかね。

神八井耳命

このように、意気地なしの弱い人として描かれていますが、実はその子孫の広がりは凄まじいものがあります。

日本書紀では、神八井耳命は多臣の祖とされています。多氏は現在の奈良県磯城郡田原本町大字多から橿原市十市町にかけてを本貫地をした古氏です。

多臣から派生した氏族としては、、、

多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、伊余國造、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣、 茨田連、志紀首、肥直、河内国志紀県主、紺口県主、河内志紀首、和泉国志紀県主、印波国造

などなど、中央、畿内、九州、東国と各地に分布しています。読むのも嫌になるぐらいですよね。

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