日本書紀|第二代 綏靖天皇②|天皇即位
即位
綏靖元年(前581年)
正月八日 綏靖天皇が即位されました。都を葛城に造り高丘宮(たかおかのみやといいます。
皇后(きさき)を尊びて皇太后(おほきさき)とお呼びします。この年は太歳庚辰(たいさい かのえのたつ)でした。
原文
元年春正月壬申朔己卯 神渟名川耳尊 卽天皇位 都葛城 是謂高丘宮。尊皇后曰皇太后 是年也 太歲庚辰 |
かんたん解説
高丘宮
御所市大字森脇に「葛城高丘宮跡」の石碑が立っています。一言主神社の北400mぐらいの山際です。
橿原を政治の中心とした神武天皇から打って変わって、次の天皇が葛城に宮を置く。すこし違和感があります。
葛城高丘宮跡は、葛城市から御所市にかけての集落全体を見渡すことが出来る立地です。
そんなことから、ヤマト朝廷が最も警戒するべき氏族の一つ葛城氏(賀茂氏)を監視するためなのか、それとも葛城氏との融和のためか、、、などと想像します。
はたまた実在しないかもしれない天皇だから、適当に場所を設定した?実は、この周辺からは何の遺構も発見されていないということです。。。
皇后
綏靖2年(前580年)
正月 五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)を皇后とされました。
ある書には、磯城縣主(しきのあがたぬし)の娘で川派媛(かはまたひめ)とも伝わります。
ある書には、春日懸主(かすがのあがたのぬ)大日諸( おほひもろ)の娘の糸織媛(いとりひめ)とも伝わります。
皇后は天皇の姨(みおば)で、磯城津彥玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)をお生みになった。
原文
二年春正月、立五十鈴依媛爲皇后 一書云 磯城縣主女川派媛 一書云 春日縣主大日諸女絲織媛也 卽天皇之姨也 后生磯城津彥玉手看天皇 |
かんたん解説
五十鈴依媛命
天皇の叔母さんとあります。
すなわち、天皇のお母さんの妹です。それはとりもなおさず、神武天皇の皇后の妹となります。ですからして、姉と同様で「事代主神(大物主神)」の娘となります。
しつこい?
”超特別な神の子” ですから、天皇の皇后に最も似つかわしいということになりましょうか。
「鸕鶿草葺不合尊」も、お母さんの妹を娶りました。そして神武天皇が生まれました。そのあたりを意識したのでしょうか。
川派媛
磯城県主の娘とあります。
磯城県主は神武大和入り以前から三輪を本拠としていた弟磯城。きっと三輪山の大物主神祭祀を司っていたと思われますから、ヤマト朝廷の安定を考えた場合、あり得る人選だと思います。
事代主神(大物主神)の子ではなく、大物主神を祭祀する資格を持つ氏族の子です。実はこれも大物主神の子孫と言えますし、こちらの方が現実的なと思います。
ちなみに、古事記では、この伝承を採用しています。ただし、名前は河俣毘売です。
糸織媛
春日県主の娘とありますね。春日県主は磯城県主から枝分かれした氏族であろうと言われています。
皇后伝承の謎
このように、綏靖天皇の皇后は、異なる3人が伝承として伝わっています。おかしな話ですね。
ホツマツタヱによると、、、
- 五十鈴依媛は「内宮」とあります。すなわち正妻です。
- 川派媛は、妃の一人で「大典侍」とあります。
- また、糸織媛も妃の一人で「典侍」だったようです。
これが答え?なのでしょうか。わかりません。
いずれにしても、この綏靖天皇から孝元天皇まで、同じようなパターンで皇后の伝承が続きます。
兄が薨かる
綏靖4年(前578年)
四月 兄の神八井耳命が薨かり、畝傍山の北に埋葬しました。
原文
四年夏四月 神八井耳命薨 卽葬于畝傍山北 |
かんたん解説
神八井耳命の墳墓
畝傍山の北に埋葬したとあります。現在、橿原市山本の「八幡神社」がその比定地とされています。
ここはかつて「八井神社」と呼ばれていたこと、神武天皇の御陵の候補地の一つ丸山宮のすぐ近くということもあるのでしょう。
一方で、この八井神社が鎮座する小山は御陵山と呼ばれていたことがあるといいます。そしてここは、古事記がいう神武天皇御陵の場所「畝傍山の北方の白樫尾の上」という記述と見事に合致します。
もしかして、丸山宮でもなく、八幡神社の方が神武天皇の御陵だったりして、、、
立太子
綏靖25年(前557年)
正月七日 磯城津彥玉手看尊を皇太子とされました。
原文
廿五年春正月壬午朔戊子 立皇子磯城津彥玉手看尊 爲皇太子 |
崩御
綏靖33年(前549年)
五月 天皇が病気になられた。
同月癸酉(みづのとのとり) 綏靖天皇は崩御なさいました。享年84歳でした。
原文
卅三年夏五月 天皇不豫 癸酉 崩 時年八十四 |
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