日本書紀|第十代 崇神天皇①|新宮と系譜
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)
第十代 崇神(すじん)天皇
即位前
御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二子で、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と言い、物部氏の遠祖の大綜麻杵(おほへそき)の娘です。
天皇は十九歳で皇太子になられました。
開化六十年
夏 四月 開化天皇は崩御されました。
原文
御間城入彦五十瓊殖天皇、稚日本根子彦大日々天皇第二子也。母曰伊香色謎命、物部氏遠祖大綜麻杵之女也。天皇年十九歲、立爲皇太子、識性聰敏、幼好雄略。既壯寛博謹愼、崇重神祇、恆有經綸天業之心焉。六十年夏四月、稚日本根子彦大日々天皇崩。 |
即位
崇神元年(前97)
春 正月十三日 皇太子が天皇に即位されました。(崇神天皇)
開化天皇の皇后は、尊ばれて皇太后と呼ばれました。
原文
元年春正月壬午朔甲午、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。 |
皇后と皇子
同年(前97)
春 二月十六日 御間城姫(みまきひめ)を皇后とされました。
これより先に、皇后は、
- 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)
- 彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)
- 國方姫命(くにかたひめのみこと)
- 千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
- 倭彦命(やまとひこのみこと)
- 五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)
をお生みになりました。
また、妃の紀伊國の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とほ つ あゆ め まく はし ひめ)ある話では、大海宿禰(おほしあまのすくね)の娘の八坂振天某邊(やさかふるあまいろべ)とも云うが、
- 豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)
- 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお生みになりました。
また、妃の尾張大海媛(をはりのおほしあまひめ)が、
- 八坂入彦命(やさかのいりびこのみこと)
- 渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)
- 十市瓊入姫命(とをちにいりびめのみこと)
をお生みになりました。この年は太歳甲申(きのえのさる)でした。
原文
二月辛亥朔丙寅、立御間城姬爲皇后。先是、后生活目入彦五十狹茅天皇・彦五十狹茅命・國方姬命・千々衝倭姬命・倭彦命・五十日鶴彦命。又妃、紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛一云、大海宿禰女八坂振天某邊、生豊城入彦命・豊鍬入姬命。次妃尾張大海媛、生八坂入彦命・淳名城入姬命・十市瓊入姬命。是年也、太歲甲申。 |
かんたん解説
御間城姫
皇后の御間城姫は、8代孝元天皇の第一皇子「大彦命」の娘です。
この皇后が産んだ第一子が、次の天皇(垂仁)になられます。
遠津年魚眼眼妙媛
「遠津」は遠い所から来たというような意味でしょうか。「年魚」は、一般的にはアユを指しますが、古代ではサケも年魚と呼ばれたようです。
紀伊国の荒河戸畔の娘とあります。「戸畔」は女首長のことを指すとされていますから、紀伊国は女性が納めていたということでしょうか。
サケが遡る清流の女神のイメージですね。そんな水の女神が豊城、豊鍬を生んだということでうから、水で潤う豊かな農村がイメージされます。神話のようなお名前ですね。
八坂振天某邊
遠津年魚眼眼妙媛のところに、ある話では、、、として挿入されていますが、
ホツマツタヱでは、この八坂振天某邊が、尾張大海媛が産んだとされる3人のうちの
- 八坂入彦命(やさかのいりびこのみこと)
- 十市瓊入姫命(とをちにいりびめのみこと)
を生んだとあります。
そして、尾張大海媛は、
- 渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)
の一人だけを生んだことになっているのです。
ですから、ある話では、、、と挿入されるべき場所は遠津年魚眼眼妙媛のところではなく、尾張大海媛のところにあるべきでしょう。
尾張大海媛
先代旧事本紀によると、この姫は建宇那比命と節名草姫との子となっています。
建宇那比命は尾張氏系図に見ることが出来ます。男系を遡ると、天村雲・天香語山・天火明命に辿り着きます。
母の節名草姫の出自ははっきりしませんが、「名草」とあることから紀氏あるいは紀伊国に関連する姫なんじゃないかと想像します。
即位の詔
崇神3年(前95)
秋 九月 都を磯城(しき)に遷しました。これを瑞籬宮(みつかきのみや)といいます。
崇神四年
冬 十月二十三日 天皇は、詔を発しました。
我が皇祖やすべての天皇が、天子の位に就いてきたのは、自分一身のためであろうはずがない。それは人神を統治し、天下を治めるためであった。だからこそ、奥の深い功績を重ね、高い徳を広めてこられた。
今、私は皇位を継承し、国民を愛育することとなった。
どのようにすれば皇祖の跡を受け継ぎ、長く終わりの無い皇統を保てるだろうか。群卿・百僚よ、お前たちが道徳をつくし、我とともに天下を安らかに治めること、これをしないといけないのである。
原文
三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮。
四年冬十月庚申朔壬午、詔曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」 |
かんたん解説
瑞籬宮
崇神天皇の磯城瑞籬宮は、奈良県桜井市金屋にあったとものと推定されています。
三輪山の南西の麓にある志貴御県坐神社に、「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられています。
ここが大和盆地の東の山沿いを通る、現存する日本最古の道路「山辺の道」の起点となっています。
ここから北の終点である春日山までの道程には、崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓古墳などの大型古墳や、大神神社や檜原神社、そして石上神宮などの聖地が点在しています。
即位の詔
神武天皇が発した建国の詔、そしてこの崇神天皇が即位に際して発した詔。いずれも、「はつくにしらすすめたみこと」始馭天下之天皇(神武天皇)・御肇國天皇(崇神天皇)と称された天皇の詔です。
その二人の詔は一貫しています。
- 天神から委ねられた統治権
- 道徳による統治
- 人民(大御宝:おおみたから)を慈しむこと
- 和の精神
これが、日本統治のあり方なんですね。令和の今、どうでしょうか。
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