第十代 崇神天皇④|武埴安彦の反乱

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不思議な少女

崇神10年(前88)

夏 七月二十四日 天皇は、

「民を導く基本は教化することにある。天神地祇をお祭りして災害はおさまった。しかし、辺境の人々は未だに私の法は及んでいない。これは未だに天皇の徳がいきわたっていないということだ。そこでだ。群卿を選んで四方に派遣し、我が教えを知らしめよ。」

と詔されました。

秋 九月九日 天皇は、

大彦命(おほびこのみこと)を北陸に

武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に

吉備津彦(きびつひこ)を西道に

丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に

それぞれ派遣し、

「もし、教えを受けないものがあれば、兵を挙げて討伐するべし。」

とおっしゃいました。

同月 二十七日 大彦命が和珥坂あたりに着いたとき、少女が歌を唄いました。
ある話では、大彦命が山背(やましろ)の平坂(ひらさか)に着いたときに、道の側にいた少女が歌ったとも

崇神天皇よ。自分の命が狙われているのも知らずに、若い娘と遊んでいるのか。
正門から隙を窺って殺そうとしているのに、若い娘と戯れているのか

大彦命は、この歌を不思議に思い、少女に、

「お前は、何を言おうとしているのか?」

と訊ねると、少女は

「別に、何も言ってませんよ。ただ唄っただけですよ。」

と言って、もう一度唄ったかと思うと、忽然と消えてしまいました。

大彦命は、すぐに戻り、その事を天皇に報告しました。

さて、天皇の姑(みをば)の倭迹々日百襲姬命は、聰明で叡智あふれ、未来のことを予見できる人でした。

ですから、この話を聞いた倭迹々日百襲姬命は、その歌が不吉な前兆であることに気が付き、天皇に、

それは、武埴安彦(たけはにやすびこ )が謀反を起こそうとしていることの前兆でしょう。聞くところによりますれば、武埴安彦の妻の吾田媛が密かに香具山の土を取って、領巾の中に包んで「こに土は倭国そのものだ。」と呪言を唱えて帰って行ったとのことでございまする。早く手当をしないと、後手を踏みましょうぞ。

と申し上げました。

 原文

十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彦命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、大彦命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彦命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、

瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓鳥塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望
一云「於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望」

於是、大彦命異之、問童女曰「汝言何辭。」對曰「勿言也、唯歌耳。」乃重詠先歌、忽不見矣。大彦乃還而具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」

 かんたん解説

四道将軍

古事記では、それぞれの活躍は描かれていますが、「四道将軍」という呼び名で括っているのは日本書記だけです。4人とも皇族です。以下、簡単にご紹介しておきます。

大彦命(おほびこのみこと)

8代孝元天皇の第一皇子ですから、9代開化天皇のお兄さんです。ということは、10代崇神天皇の叔父さんにあたります。

そして、この大彦命の娘さんが10代崇神天皇の皇后となります。ですので、崇神天皇から見ると、叔父であり舅でもあるということです。

さらに、謀反を起こした武埴安彦は、大彦命の異母兄弟です。

武渟川別(たけぬなかわわけ)

その大彦命の御子です。阿部氏の祖です。

この阿部氏からは、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に いでし月かも」でお馴染みの阿倍仲麻呂や、安倍晴明が輩出されます。

吉備津彦(きびつひこ)

吉備津彦は、大彦命よりもさらに一代上の世代の人。7代孝霊天皇の御子です。本名は彦五十狭芹彦命。次の章で、吾田媛軍を迎撃した将軍です。

西道に派遣された吉備津彦は、吉備国で地元豪族の首長「温羅」退治をした伝承が残っていて、これが桃太郎の鬼退治のモデルになっているのだと岡山県は主張しています。

丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)

10代崇神天皇の異母兄弟「彦坐王」の御子です。ですから甥にあたります。

和珥坂

古代豪族の和爾氏の本拠だったとされる天理市和爾町に伝承地石碑が建っています。

国道169号線沿いにある積水化成品工業の裏手です。

 

武埴安彦の反乱

そこで、四方へ赴こうとしていた諸将軍を留めて軍議を開きました。

そうこうするうちに、武埴安彦と吾田媛が反逆を謀り、急襲してきました。軍を別けて、すなわち夫は山背(やましろ)から、妻は大坂(おほさか)から、帝京を襲撃したのです。

そこで天皇は、五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)を派兵して、吾田媛軍を迎撃させました。五十狭芹彦命は、吾田媛軍を大坂で遮り、これを大いに打ち破りました。吾田媛を殺し、すべての兵士を斬り捨てました。

また、大彦命と和珥臣の遠祖である彦國葺(ひこくにぶく)を山背に向かわせてて、武埴安彦軍を攻撃させました。

山背への途中、忌瓮(いはひべ)を和珥の武鐰坂(たけすきのさか)の上に据えて、精兵を率いて那羅山(ならやま)に登って陣を張りました。この時多くの官軍が集まり草木を踏みならしたので那羅山といいます。

さらに那羅山を降りて進んで輪韓河(わからがわ)に到着しました。ここで川を挟んで陣を張り、おのおの挑み合いました。そこで、時の人はその河を改めて挑河(いどみがわ)と呼ぶようになりました。今、泉河(いずみがわ)というのは、それが訛ったものです。

埴安彦がこれを望み見て、彦国葺に言いました。

「どうして、お前は兵を起こしてやって来たのか?」

彦国葺(ヒコクニフク)は答えました。

「お前は天に逆らい道に反して、王室を傾けようとしている。ゆえに義兵を挙げ、逆賊のお前を討つのだ。これは天皇のご命令である。」

このようにして、二人は射かけ争いをしました。

まず先に武埴安彦が彦國葺を射ましたが当たりませんでした。次に、彦國葺が武埴安彦に射掛けました。その矢は武埴安彦の胸に当たり、遂に殺しました。

武埴安彦軍は脅えて退却しましたが、河北で半分を超える兵士が首を切り落とされ、死体があふれていました。そんなことから、その地を羽振苑(はふりその)といいます。

また賊兵が恐れて逃げていくとき、屎(糞)が褌(袴)から漏れました。なので、甲(かわら)を脱ぎ捨てて逃げました。

しかし、逃げ切れないと悟って、土下座して「我が君よ」といい命乞いをしました。それで時の人は、甲(かわら)を脱ぎ捨てた所を伽和羅(かわら)と呼ぶようになり、褌(袴)から屎(糞)を漏らした所を屎褌(くそばかま)と呼ぶようになりました。

今、樟葉(くすは)というのは、それが訛ったものです。

 原文

於是、更留諸將軍而議之。未幾時、武埴安彦與妻吾田媛、謀反逆、興師忽至、各分道、而夫從山背、婦從大坂、共入欲襲帝京。時天皇、遣五十狹芹彦命、擊吾田媛之師、卽遮於大坂、皆大破之、殺吾田媛、悉斬其軍卒。復遣大彦與和珥臣遠祖彦國葺、向山背、擊埴安彦。爰以忌瓮、鎭坐於和珥武鐰坂上。則率精兵、進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而蹢跙草木、因以號其山曰那羅山。蹢跙、此云布瀰那羅須。更避那羅山而進到輪韓河、與埴安彦、挾河屯之、各相挑焉、故時人改號其河曰挑河、今謂泉河訛也。

埴安彦、望之、問彦國葺曰「何由矣、汝興師來耶。」對曰「汝逆天無道、欲傾王室。故舉義兵、欲討汝逆、是天皇之命也。」於是、各爭先射。武埴安彦、先射彦國葺、不得中。後彦國葺、射埴安彦、中胸而殺焉。其軍衆脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其處、曰羽振苑。亦其卒怖走、屎漏于褌、乃脱甲而逃之、知不得免、叩頭曰「我君。」故時人、號其脱甲處曰伽和羅、褌屎處曰屎褌、今謂樟葉訛也、又號叩頭之處曰我君。叩頭、此云迺務。

 かんたん解説

武埴安彦の本拠地は南山城とも宇治あたりとも。宇治あたりから木津へ進軍したということですね。

一方、吾田姫軍は河内から二上山の麓の大坂口から大和に侵入しようとしました。吾田媛は河内の青玉の娘ですので、実家を拠点として進軍したのでしょう。

忌瓮

斎み清めた神聖なる素焼きの壺(甕)

これに神酒を入れて、戦勝を祈願したようですね。古事記では、吉備津彦が西国平定の途中、針間で同じことを行ってます。

和珥の武鐰坂

前段の和珥坂に同じ。

地名

那羅山(ならやま)

奈良県と京都府の境目に東西に横たわる丘陵を平城山(ならやま)丘陵といいます。

この丘陵を越える道は、奈良時代は歌姫越え、平安時代以降は般若寺越えのルートが一般的だったようです。

挑河(いどみがわ)

両軍が対峙した川を挑河は、現在の木津川のことです。今は、泉河というとありますので地図で調べると泉大橋が見つかりました。、国道24号線が通る橋です。

羽振苑(はふりその)

京都府相楽郡精華町に祝園という地名があります。ここが、羽振苑だといわれています。

伽和羅(かわら)

祝園から樟葉までの川岸に河原・川原などの地名を探すと、、、

祝園の川向こうには、西河原があり、

狛田駅の東に、前川原・川原道・西川原・中川原・鈴川原・上川原・東川原などの地名を見つけることが出来ます。

新田辺駅の東に、河原平田・河原食田・河原御蔭・河原北口・河原神谷・河原一ノ坪・河原野色・河原受田・河原内ノ里などの地名があります。

八幡東ICの近くには奥河原、その対岸に川原。

とまあ、沢山あります。

そんな中、石清水八幡宮の境内摂社である「高良(こうら)神社」が、この甲(こうら)に関係するという説があります。樟葉の隣ですから可能性はありますね。

屎褌(くそばかま)

大阪府枚方市楠葉(樟葉)の由来が屎褌(くそばかま)とは、、、

我々のような中河内に住む者の樟葉に対するイメージは「新しい街」「きれいな街」「おしゃれな街」でしたのに、、、

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