第十代 崇神天皇⑤|倭迹迹比百襲姫命と大物主大神

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倭迹迹比百襲姫命の伝説

その後、倭迹迹比百襲姫命は大物主神の妻となりました。しかし、その神は昼間は姿をお見せにならず、夜にしか来られませんでした。

そこで、倭迹迹姫命(やまとととびめのみこと)が

「あなた様はいつも昼間にはいらっしゃらないので、はっきりとお顔を拝見することができません。どうか、しばらくこのままお留まりくださいませ。明日の朝になれば、麗しいお顔を見ることができましょうほどに。」

とお願いしました。すると大神は

「うん。それはもっともだ。では、明日の朝、お前の櫛箱に入っていよう。ただし、私の姿を見ても、驚くでないぞ。」

とおっしゃいました。

倭迹迹姫命は、その言葉を不思議に思い、夜が明けるのを待って櫛箱を開けて見ると、そこには実に美しい小さな蛇が入っていました。その蛇の大きさは衣の紐ぐらいでした。

見た瞬間、驚いて叫び声を上げると、大神は恥じを感じられて、人の姿と化身し、

「お前は我慢できずに、私に恥をかかせた。仕返しに、私もお前に恥をかかせてやる!」

とおっしゃり、大空を踏んで御諸山(みもろのやま)に登ってしまわれました。

倭迹迹姫命が、その様子を仰ぎ見て、悔やんでその場にしゃがみこんでしまいました。そのために、箸が陰部に刺さり亡くなってしまわれ、大市に埋葬されました。

そんなことから、人々はその墓を箸墓(はしのみはか)と呼ぶようになりました。

ちなみに、この墓は、昼は人が作り、夜は神が作りました。大坂山の石を運ぶには、山から墓まで人が並んで、手渡しで運んだといいます。人々は、これを歌に詠んで

大坂山の麓から頂上まで続いている多くの石 そんな多くの石でも手渡しで運んでいけば 運ぶことができるだろう

 原文

是後、倭迹々日百襲姬命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姬命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姬命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姬命、仰見而悔之急居急居、此云菟岐于、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。時人歌之曰、

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂

 かんたん解説

倭迹迹比百襲姫命

7代孝霊天皇の皇女。同母弟に四道将軍の一人である彦五十狭芹彦命(吉備津彦)がいます。

神懸りしたり(崇神天皇7年8月7日条)、予見したり(崇神天皇10年9月27日条)と、巫女(シャーマン)的な存在だったようです。

大物主大神との結婚伝承は、人と蛇との三輪山型神婚を表しつつ、妻問婚(夫による通い婚)の慣習を表しています。

大物主神と蛇

大物主神が蛇の姿を変えたというお話は、この伝承の他にもあります。

古事記 崇神天皇記に、

活玉依毘売のもとに、誰ともわからない男が夜這いに来て身篭った。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出て三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので「三輪」と呼ぶようになった。

とあります。蛇とは書かれていないですが、鍵穴を通っていったことから蛇が連想されます。

雄略天皇7年7月3日条には、

雄略天皇が三諸山の神が見たいと言ったところ、力持ちのスガルが大蛇を捕まえてきた。天皇は身を清めてなかったので、大蛇は稲妻のように光り目が輝いていた。天皇は神を畏れて見ることができませんでした。

とあります。大蛇です。

このように、三諸山の神すなわち大物主神は蛇に姿を変えることが多いということが言えそうです。

ですので、三諸山(三輪山)をご神体とする大神神社では蛇が神の使いとされ、あっちこっちに蛇の好物「卵」が「お酒」とともに供えられています。

箸墓古墳

倭迹々日百襲姬命が埋葬されたという箸墓は、正式名称を「大市墓」として、奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳が治定されています。

築造年代は3世紀の中頃から4世紀中ごろと推定されています。

卑弥呼の墓であるという説もありますよ。

ちなみに、石を運んできたという大阪山は、奈良盆地の反対側です。

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