日本書紀|第十代崇神天皇⑥|御肇国天皇

2020年10月29日

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地方豪族の平定

同年(前88)

冬 十月一日 天皇は群臣に、

「今、反乱軍は悉く誅伏し、畿内は平定された。がしかし、海外の荒れた人々は未だに騒動を起こして止まない。四道将軍よ、今すぐ出動せよ。」

と詔されました。

十月二十二日 四道将軍が、一斉に出陣しました。

 

崇神11年(前87)

夏 四月二十八日 四道将軍が、野蛮な人々を平定したことを奏上しました。

この年 異俗の多くの人々が、朝廷に帰順し、国内が安寧となりました。

 原文

冬十月乙卯朔、詔群臣曰「今反者悉伏誅、畿內無事。唯海外荒俗、騷動未止。其四道將軍等、今急發之。」丙子、將軍等共發路。

十一年夏四月壬子朔己卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。是歲、異俗多歸。國內安寧。

 かんたん解説

海外

海外の荒れた人々とありますが、これは地方に根を張った大陸からの渡来人のことを指すと思われます。

例えば、西道に派遣された吉備津彦(五十狭芹彦命)は、吉備国において、民を苦しめていた異国人の「温羅」を討伐したという伝承が残っています。

このような異国人が、各地に点在していたのでしょう。今のように、入国手続きとかなかったですから、渡来し放題ですよね。

朝鮮で戦に敗れた氏族が海を渡って日本に逃げてくる。そういうようなことは日常茶飯事だったのかもしれません。

 

課税の始まり

崇神12年(前86)

春 三月十一日 天皇が、

「私が皇位を継承したときは、国家を保つことはできたが、天子の光も蔽われる所があり、徳を持ってしても安らかにならなかった。

このために、陰陽の理が乱れ、寒暑の秩序が失われた。よって、疫病が多く起こり、民が災害を蒙った。

しかし、今は、罪を祓い、過ちを改めて、天神地祇を厚く敬った。また、教えを広めることで、荒れた人々も平定されたし、従わぬ者どもは兵を挙げて討伐した。

官は仕事をやめることもなくなり、下を見れば浮浪者もいなくなった。教えが行き届き、民は生業を楽しんでいるようだ。異国の人々も通訳を重ねて来朝し、海外はすでに帰化している。

この時にあたり、さらに人民を調査し、長幼の序列や、課役の手順を知らしめよ。」

と詔されました。

秋 九月十六日 初めての戸籍調査を実施し、更に調役を科しました。これを、男の弭調(ゆはずのみつき)、女の毛末調(たなすゑのみつき)といいます。

この租税を天神地祇に奉献したので、神々は和み、風雨は自然の理の通りに順調を取り戻し、農作物はよく実り、民の家にも物が行き届き人は満足し、天下は泰平の世となりました。

そこで、天皇を褒め讃えて、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と申し上げます。

 原文

十二年春三月丁丑朔丁亥、詔「朕初承天位、獲保宗廟、明有所蔽、德不能綏。是以、陰陽謬錯、寒暑矢序、疫病多起、百姓蒙災。然今解罪改過、敦禮神祇、亦垂教而緩荒俗、舉兵以討不服。是以、官無廢事、下無逸民、教化流行、衆庶樂業、異俗重譯來、海外既歸化。宜當此時、更校人民、令知長幼之次第、及課役之先後焉。」

秋九月甲辰朔己丑、始校人民、更科調役、此謂男之弭調・女之手末調也。是以、天神地祇共和享而風雨順時、百穀用成、家給人足、天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也。

 かんたん解説

御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)

崇神天皇は、褒め讃えられ「御肇國天皇」と称されたとあり、神武天皇も、褒め讃えられ「始馭天下之天皇」と称されたとあります。

こうなると、いったいどちらが初代天皇なのか、という議論が巻き起こるわけです。

これに関する議題や説はいろいろとあります。例えば、、、

  • 崇神のクニは「国」で、神武のクニは「天下」。「天下」は「国」にくらべて抽象的。よって実在する初代天皇は崇神天皇であり、後世になって1代~9代を付け足したのだという説。
  • 神武と崇神は、そもそも王朝が違うのだ。だからどちらも、それぞれのハツクニシラスなのだという説。
  • 神武はヤマトを建国した天皇で、崇神はヤマトの宗教と政治を改革して、さらに全国区に押し上げた天皇なので、どちらもハツクニシラスだが、意味合いが少し違うという説。

などなど。

私は、最後の説を推したいと思います。

造船の始まり

崇神17年(前81)

秋 七月一日 天皇は、

「船は天下にとって大切なものである。いま海辺の民は、船が無いがゆえに運搬に甚だ苦労しておる。そこで、諸国に命じて船を造らせるようにせよ。」

と詔されました。

冬 十月 始めて船舶を造りました。

 原文

十七年秋七月丙午朔、詔曰「船者天下之要用也。今海邊之民、由無船、以甚苦步運。其令諸國、俾造船舶。」冬十月、始造船舶。

 かんたん解説

島国である日本に船が無いわけがないですから単なる造船ではないでしょう。

船舶とあることからも、交易船のような大型船をつくるための造船所を作ったというような意味合いかと思います。

貿易振興によって利益を獲得する、あるいは、それに伴う税収増を目論んだか、いずれにしても財政基盤強化にも役立ったと思われます。

 

立太子

崇神48年(前50)

春 正月十日 子の豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)を呼び、

「私は、お前たちを同じように愛しているので、どちらを皇太子にしたらよいのか決めかねておる。そこでじゃ。お前たち、まずは夢を見るがよい。朕がその夢で占いをしようと思う。」

と申された。

そこで、二人の皇子は天皇の命を受けて、水浴し身を清めて、お祈りをして寝ました。二人はそれぞれ夢を見られました。

夜が明けて、兄の豊城命が夢の内容を奏上するに、

「御諸山に登り、東を向いて八回槍を突き出し、八回刀を打ち振る夢をみました。」

と申し上げました。

弟の活目尊は、

「私は御諸山の嶺に登り、縄を四方に張り、粟を食べる雀を追い払う夢を見ました。」

と申し上げました。

そこで、天皇は夢占いをされて、

「兄は東の方角だけを向いていた。よって東国を治めよ。弟は四方すべてに臨んでいた。よって朕の位を継ぐがよかろう。」

とおっしゃいました。

夏 四月十九日 活目尊を皇太子(ひつぎのみこ)とされた。豊城命には東国を治めさせた。豊城命が、上毛野君(かみつけののきみ)と下毛野君(しもつけののきみ)の始祖である。

 原文

八年春正月己卯朔戊子、天皇勅豊城命・活目尊曰「汝等二子慈愛共齊、不知曷爲嗣。各宜夢、朕以夢占之。」二皇子、於是、被命、淨沐而祈寐、各得夢也。會明、兄豊城命、以夢辭奏于天皇曰「自登御諸山、向東而八廻弄槍・八擊刀。」弟活目尊以夢辭奏言「自登御諸山之嶺、繩絚四方、逐食粟雀。」則天皇相夢、謂二子曰「兄則一片向東、當治東國。弟是悉臨四方、宜繼朕位。」四月戊申朔丙寅、立活目尊、爲皇太子。以豊城命令治東、是上毛野君・下毛野君之始祖也。

 かんたん解説

夢占いで皇太子を決めるとは、いささか乱暴すぎないだろうか、、、などと思ってしまいますが、崇神天皇と夢は縁が深いのです。

天照大御神と倭大国魂神の分祀や、疫病の原因追及、その対応策、、、すべて夢のお告げだったのですから。

そもそも夢にはその人の深層心理が現れるといいますから、兄は猪突猛進のオフェンスタイプで、弟は隙のないディフェンスタイプだということがわかったのでしょう。

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