日本書紀|第十代 崇神天皇⑧|依羅池の造営と崩御

2020年10月29日

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人工池の造営

崇神62年(前36)

秋 七月二日 天皇は詔して、

「農業は国の基本であり、民が生きていくための拠り所である。今、河内の狭山の埴田は水が少ないので、その国の百姓は農作業を怠っている。そこで、池や溝を多く掘って、民の生業を広く豊かにせよ。」

とおっしゃいました。

十月 依網池(よさみのいけ)を造りました。

十一月 苅坂池(かりさかのいけ)・反折池(さかをりのいけ)を造りました。

ある話では、天皇は桑間宮(くはまのみや)に滞在して、この三つの池を造ったといいます

崇神65年(前33)

秋 七月 任那国(みまなのくに)が蘇那曷叱知(そなかしち)を派遣し、朝貢してきました。任那は、筑紫国から二千里余、北の海を隔てた鶏林(新羅)の西南にあります。

 原文

六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔曰「農、天下之大本也、民所恃以生也。今河內狹山埴田水少、是以、其國百姓怠於農於農事。其多開池溝、以寛民業。」冬十月、造依網池。十一月、作苅坂池・反折池。一云、天皇居桑間宮、造是三池也。

 かんたん解説

依羅池(よさみのいけ)

大阪府住吉区にある大依羅神社あたりに存在したと言われています。大依羅神社参道入り口あたりに依羅池跡の石碑が立ってます。

西除川の水を一時的に貯める方式をとったとすると、周囲の遺構や地形から判断して、池の面積は50ヘクタールぐらいだったと推定されるそうです。

50ヘクタールというと、だいたい東京ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンと同じぐらいの面積ちとなります。ビックリですね。

苅坂池(かりさかのいけ)・反折池(さかおりのいけ)

これらの池は、場所が特定されていないらしいです。

古事記の崇神天皇の段では、「軽之酒折池」と記されています。苅坂(かりさか)と反折(さかおり)を合体させたら、軽之酒折(かるのさかおり)となる?

軽之酒折池は、奈良県橿原市大軽あたりにあったと推定されていますが、そうなると「河内国の狭山」から大きく外れてしまいます。

桑間宮

桑間宮の場所は特定されていませんが、住吉大社の北の「粉浜」あたりにあったという説があるようです。

そこに滞在して3つの池を造ったとなれば、苅坂池と反折池もこのあたりに造られたと考えられます。ですから、古事記の言う「軽之酒折池」とは違う池ということになりますね。

そう思ってから地図を見ると、依羅池跡の北に「苅田」という地名を見つけました。関係あるのかも、、、

狭山は?

いずれにしても、依羅池も苅坂池も反折池も、「河内国の狭山」というには違和感があります。

じゃあ河内国の狭山に池は造られていないのかというと、ちゃんと「狭山池」という池があるんです。

但し、古事記によると、造られたのは垂仁天皇の御代。垂仁天皇の皇子が造ったと記載されています。

計画が延期になって、一代ずれたのかな?

崩御と御陵

崇神六十八年

冬十二月五日 天皇は崩御されました。享年120歳でした。

明年(前29)

秋 八月十一日に、山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)に埋葬申し上げました。

 原文

六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。

天皇、踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩、時年百廿歲。明年秋八月甲辰朔甲寅、葬于山邊道上陵

 かんたん解説

山邊道上陵

奈良県天理市柳本にある「行燈山古墳」に治定されています。

なぜか、「山邊道上陵」は12代景行天皇の御陵と同じ名称です。古事記では、「崇神天皇の御陵は山辺道の勾の岡の上にあり。」と記載されていますので、景行天皇陵と区別するために「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」と名付けられました。

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