日本書紀|日本武尊①|熊襲征伐

2020年10月29日

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日本武尊の熊襲征伐

景行27年(97年)

八月 熊襲(くまそ)がまた反乱を起し、侵略をやめませんでした。

十月十三日 熊襲を征討させるために、日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣しました。年は16歳でした。

この時、日本武尊は

「私は、弓の得意な者と行こうと思う。どこかに弓の得意な者はおらぬか。」

とおっしゃいましたら、ある人が、

「美濃国に弓の名手がおります。名を弟彦公といいます。」

と教えました。

そこで天皇は、葛城人の宮戸彦を派遣して、弟彦公を召し出しました。

美濃国の弟彦公(おとひこのきみ)は、石占の横立(よこたち)と、尾張の田子の稲置(いなき)、乳近の稲置(いなき)の三人を連れてやってきて、日本武尊に従って出発しました。

 原 文

秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。

冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。於是日本武尊曰「吾、得善射者欲與行。其何處有善射者焉。」或者啓之曰「美濃國有善射者、曰弟彥公。」於是日本武尊、遣葛城人宮戸彥、喚弟彥公。故、弟彥公、便率石占横立及尾張田子之稻置・乳近之稻置而來、則從日本武尊而行之。

 ひとことメモ

日本武尊に従軍した人々

葛城人の宮古彦

弓の名人である弟彦公を美濃から連れてきたこの人は、神武天皇から葛城国造に任命された初代国造「剣根命」の6世孫。

神武天皇の土蜘蛛退治により葛城と名を変える前は高尾張邑と言われた葛城地方。そこから美濃・尾張へ移住したので尾張氏と名乗ります。よって、葛城氏と尾張氏は同族と考えられます。そのようなことから、美濃や尾張との関係も深かったということでしょう。

弟彦公

尾張氏系図によると、尾張国造の乎止与命の祖父で、天香語山命の7世孫に「弟彦」の名が見えます。この人でしょうか。この人だと、尾張氏の首長の地位の人になりますが、、、美濃にいたのでしょうか。。。

石占の横立

石占は三重県桑名市です。桑名市太夫にある増田神社はの社伝に、「大海人皇子が石占頓宮を奉斎したところ」とあります。

田子の稲置

田子は、現在の名古屋市瑞穂区田光町。田子の稲置とは、このあたりの首長という意味でしょう。

乳近の稲置

はっきりとしたことはわからないようですが、岐阜県羽島市足近にある阿遅加神社あたりとも、愛知県大府市神田の近崎神明社あたりが岬となっていて、ここらへんが乳近であるという説も。

 

川上梟帥の誅殺

十二月 熊襲国に到着しました。そして、その様子や地形の険しいところ易しいところなどを偵察しました。

熊襲には名を取石鹿文(とろしかや)または川上梟帥(かはかみのたける)いう首領がおり、この時、全親族を集めて宴をしようと思っておりました。

そこで日本武尊は髪を解いて童女の姿になり、川上梟帥の宴の様子をこっそりと伺い、剣を裀の中に隠し持ち、宴の部屋に入って、女性の中に紛れ込みました。

川上梟帥はその童女の容姿に関心を持ち、手を携えて自分の横に座らせ、酒を飲ませながら戯れました。やがて夜は更けて、人もまばらになりました。なおかつ、川上梟帥は酔っぱらっています。

そのとき、日本武尊は裀から剣を取り出し、川上梟帥の胸を刺しました。

死に至る前に、川上梟帥が頭を下げて、

「お待ちください。申し上げたいことあります。」

と言いました。

日本武尊は、剣を留めて待ちますと、

「あなた様はどなたですか?」

と訊ねたので、

「私は、景行天皇の子である。曰本童男(やまとをぐな)という。」

とお答えになりました。すると、また川上梟帥が

「私は国中で一番力強い者で、人々は私に勝つことが出来ないので従わない者はおりません。今まで多くの武人と遭遇しましたが、皇子のような方に会ったことはないです。

卑しい賊の卑しい口をもってではありますが、尊号を奉りたいのですが、お許しいただけますでしょうか。」

と申し上げました。

「許す。」

とお答えになられたので、

「これより以降は日本武皇子(やまとたけるのみこ)とお呼び申し上げましょう。」

と申し上げました。それを言い終わるや否や、日本武尊は川上梟帥の胸を刺し通して誅殺されました。

これを以って、今に至るまで、日本武尊と称えて申し上げるのは、これが由縁です。

その後、弟彦たちを派遣して、その党類を一人残らず斬殺し、余すところなく平定しました。

 

その後、海路で大和に帰られる途中、吉備に着き穴海(あなうみ)を渡りました。そこに悪神がいたので誅殺しました。また、難波に着いたときも、柏濟(かしはのわたり)の悪神を誅殺しました。

 

景行28年(98年)

二月一日 日本武尊が熊襲平定を奏上し、

「天皇の神霊のご加護により、兵を挙げて、熊襲の首領を誅殺し、その国を悉く平定しました。これにより、西の国はすでに安らかとなり、人民は平穏に暮らしています。

ただ、吉備の穴渡の神、および難波の柏渡の神は悪い心を持ち、毒気を放って、通る人々を苦しめて、禍害の温床となっていました。ゆえに、これらの悪神をすぐに誅殺すると同時に水陸の道を開きました。」

と申し上げました。

天皇は、日本武尊の功績を褒め称え、ことのほか愛されました。

 原 文

十二月、到於熊襲國。因以、伺其消息及地形之嶮易。時、熊襲有魁帥者、名取石鹿文、亦曰川上梟帥、悉集親族而欲宴。於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟帥之宴時、仍佩劒裀裏、入於川上梟帥之宴室、居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携手同席、舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽裀中之劒、刺川上梟帥之胸。

未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所言。」時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰「汝尊誰人也。」對曰「吾是大足彥天皇之子也、名曰本童男也。」川上梟帥亦啓之曰「吾是國中之强力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力而無不從者。吾、多遇武力矣、未有若皇子者。是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎。」曰「聽之。」卽啓曰「自今以後、號皇子應稱日本武皇子。」言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武尊、是其緣也。然後、遣弟彥等、悉斬其黨類、無餘噍。既而、從海路還倭、到吉備、以渡穴海。其處有惡神、則殺之。亦比至難波、殺柏濟之惡神。濟、此云和多利。

廿八年春二月乙丑朔、日本武尊奏平熊襲之狀曰「臣頼天皇之神靈、以兵一舉、頓誅熊襲之魁帥者、悉平其國。是以、西洲既謐、百姓無事。唯、吉備穴濟神及難波柏濟神、皆有害心、以放毒氣、令苦路人、並爲禍害之藪。故、悉殺其惡神、並開水陸之徑。」天皇於是、美日本武之功而異愛。

 ひとことメモ

取石鹿文(とりいしかや)

景行天皇が襲の国に出向いた時、襲国には、厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)という二人の渠帥者がおりました。

厚鹿文(あつかや)の二人の娘、市乾鹿文(いちふかや)・妹を市鹿文(いちかや)を騙してお召しになり、寵愛されると思った姉の市乾鹿文(いちふかや)が父親を殺してしまう、、、

という手法で襲国を討伐しました。

しかし景行天皇は、父親を討った、姉の市乾鹿文(いちふかや)を親不孝者だといって殺しました。

日本書記は、ここまで。

ホツマツタヱでは、さらに話が続きます。

妹の市鹿文(いちかや)を襲国造に任命して、殺された厚鹿文(あつかや)の弟である迮鹿文(さかや)の息子の取石鹿文(とりいしかや)と結婚させた、、、とあります。

国造の旦那になった取石鹿文(とりいしかや)が、再び勢力を伸ばして、反乱したということですね。

地名について

穴海

岡山県の倉敷市から東に向かって、児嶋半島という半島が瀬戸内海に突き出ています。

この児嶋半島、当時は、今のような地続きの半島ではなく独立した島でした。ですから児嶋と本州の間の海峡となっていたのです。その海峡というか内海を「穴海」と呼んでいたということです。

ここに海賊がいたのでしょうね。

柏渡

「難波の柏渡」の場所は不明です。

一説には、大阪市西淀川区の野里あたりだとも。根拠はないようですが、

近くには柏里という地名もあり、新羅から逃げてきた阿迦留姫命が住んだともいわれる「姫嶋」もすぐ近く。

なんとなく、ここなのかも、、、という雰囲気はありそうな。。。

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