日本書紀|日本武尊②|東国征伐前夜

2020年10月29日

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大碓皇子

景行40年(110年)

六月 東の未開の人々の多くが反乱を起し、辺境の地に騒動が起きていました。

七月一六日 天皇が詔して、

「今、東国は不安定で、暴神(あらぶるかみ)らが決起しており、また蝦夷(えみし)が謀叛を起こして、人民を略奪している。この乱れを平定するために誰を遣わすのがよいだろう。」

とお尋ねになられましたが、群臣はみな誰がよいかわかりませんでした。

日本武尊が奏上して

「私は西の国を平定したばかりですので、今度の役は大碓皇子(おほうすのみこ)が行けばいいでしょう。」

と申し上げますと、大碓皇子はこれを恐れて、草叢に隠れてしまわれました。

天皇は使者を出して迎えに行かせ、

「お前が行きたくないなら、何で無理に生かせるものか。しかし、敵に当たる前から、そんなに恐れるとは、何たることか。」

とおっしゃって責めました。

こんなことから、美濃を与えて治めさせました。これが、身毛津君(むげつのきみ)と守君(もりのきみ)の始祖です。

 原 文

卌年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌、天皇詔群卿曰「今東國不安、暴神多起、亦蝦夷悉叛、屢略人民。遣誰人以平其亂。」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言「臣則先勞西征、是役必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之、逃隱草中。則遣使者召來、爰天皇責曰「汝不欲矣、豈强遣耶。何未對賊、以豫懼甚焉。」因此、遂封美濃、仍如封地。是身毛津君・守君、凡二族之始祖也。

 ひとことメモ

蝦夷

蝦夷は、えみし・えびす・えぞと読みます。

ヤマト王権の勢力範囲の東にいる軍事勢力と定義しましょうか。

神武天皇東征における宇陀平定の段で、国見丘の八十梟師(やそたける)を掃討した後に詠んだ歌の中で、八十梟師(やそたける)を愛瀰詩(蝦夷)と表現しています。

大和入りを果たす前の王権の本拠は九州ですから、宇陀の八十梟師(やそたける)は蝦夷に定義されるのです。

そして、大和が王権勢力内に入った後は、関東や東北が蝦夷となり、関東・東北が平定されると、北海道が蝦夷となるんですね。

「日高見国」と同じ考え方です。

「蝦夷」という言葉ですが、後世、蘇我蝦夷や鴨蝦夷など、飛鳥時代の貴族たちの名前に使われているところを見ると、蔑視的な意味合いを含む言葉ではなかったと思われます。

単純に、勇猛とか強いとかという意味を持っていたと考えられますね。

大碓皇子

古事記では、弟の小碓命に殺されてしまいます。

父子で摂るべき朝食に同席しなかったので、天皇の「ねぎし(ねんごろに)諭せ」という命令を受けた小碓命が、その命令をどう解釈したのか、大碓命の手足を捥いで菰で巻いて放り捨てたと、、、

小碓命(倭建命)の強さと残忍さを表現したかったのでしょうが、、、

日本書記では、殺されることなく美濃を治めることになってますね。

景行天皇の命で美濃国造の娘の姉妹を妃として召し出させに行ったのに、自分がその姉妹と関係を持ってしまった、、、とい事がありました。美濃に封地されたのは自然な成り行きなんでしょう。

ちなみに、大碓皇子は美濃で蛇に噛まれて死んだとのこと。享年45歳。

 

東国征伐の開始

そこで、日本武尊は男らしく威勢を示して、

「熊襲が平定されてから、まだ幾年も経っていませんが、今また東の未開の国が謀叛を起しました。いったいいつになったら太平になるのでしょう。苦労はあるでしょうが、私がその乱れを平定いたしましょう。」

と申し上げると、天皇は斧と鉞(まさかり)を授けて、日本武尊に、

朕の聞くところでは、その東の未開人たちは生まれながらに強暴で、略奪を常としている。村には長がおらず、邑には首がいない。各々が境を犯して、互いに奪い合っている。また山には邪神がおり、里には悪党がいて、道を塞いで、人々を苦しめている。

そんな東の奴ら中にあっては、蝦夷が最も強い。男女が共に住み、父子の秩序もなく、冬は洞窟を住処とし、夏は樹木の上を住処としている。獣の毛皮を着てその血を飲み、兄弟たちは互いに疑い合っている。

鳥が飛ぶが如く山を登り、獣が走るが如く野を駆ける。受けた恩はすぐに忘れ、恨みには必ず報復する。頭の鬟(みずら)に矢を隠し、懐に刀を隠す。徒党を組んで辺境を襲うものもいれば、稲や桑畑の収穫時期を伺って農民から掠め取るものもいる。

こやつらは、撃てば草に隠れ、追いかけるとすぐに山に逃げ込む。そんなことだから、昔から王の統治がなされていないのだ。

今、朕がお前の人となりをじっくりと見ていると、おまえは身体が大きく、容姿端麗で、鼎を持ち上げる程の力があり、雷電の如く猛々しく、向かうところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。

つまり、形は我が子ではあるが、実は神の子なのだと悟った。

実はこれは、天が朕の不徳と国の乱れを憐み、皇統を繋げせしめ、宗廟を廃絶させないためなのだ。天下はお前の天下であり、この位はお前の位なのだ。

願わくば、深く謀り遠く慮って、不正の者を探り反乱の者を伺い、威光を示し徳をもって懐柔し、武力を使うことなく服従させよ。

よいか。まずは言葉によって説き伏せよ。無理とわかれば、武力を奮って邪鬼を追い払うのだぞ。

とおっしゃいました。

このようにして、日本武尊は斧と鉞を受け取り、再び奏上して、

「かつて西の国を征伐したときは、皇霊(みおやのみたま)の威勢に頼り、三尺の剣を持って熊襲国を撃ちました。

このたびは、天神地祇の霊に頼り、天皇の威光を拝借して、徳の教えを以って行いますが、従わなければ武力で平定いたします。」

と、重ねて礼拝して申し上げました。

天皇は吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おほとものたけひのむらじ)とに命じて、日本武尊に従わせました。また、七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫(かしはて)として、従わせました。

 原 文

於是日本武尊、雄誥之曰「熊襲既平、未經幾年、今更東夷叛之。何日逮于大平矣。臣雖勞之、頓平其亂。」則天皇持斧鉞、以授日本武尊曰「朕聞、其東夷也、識性暴强、凌犯爲宗、村之無長、邑之勿首、各貪封堺、並相盜略。亦山有邪神、郊有姦鬼、遮衢塞俓、多令苦人。其東夷之中、蝦夷是尤强焉、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住樔、衣毛飲血、昆弟相疑、登山如飛禽、行草如走獸。承恩則忘、見怨必報、是以、箭藏頭髻、刀佩衣中。或聚黨類、而犯邊堺、或伺農桑、以略人民。擊則隱草、追則入山、故往古以來、未染王化。今朕察汝爲人也、身體長大、容姿端正、力能扛鼎、猛如雷電、所向無前、所攻必勝。卽知之、形則我子、實則神人。寔是、天愍朕不叡・且國不平、令經綸天業、不絶宗廟乎。亦是天下則汝天下也、是位則汝位也。願深謀遠慮、探姦伺變、示之以威、懷之以德、不煩兵甲、自令臣隸。卽巧言而調暴神、振武以攘姦鬼。」

於是、日本武尊乃受斧鉞、以再拜奏之曰「嘗西征之年、頼皇靈之威、提三尺劒、擊熊襲國、未經浹辰、賊首伏罪。今亦頼神祗之靈借天皇之威、往臨其境示以德教、猶有不服卽舉兵擊。」仍重再拜之。天皇、則命吉備武彥與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。

 ひとことメモ

天皇のお言葉

とても長いお言葉ですね。

主旨は、

  1. いかに蝦夷が強くて悪いヤツらなのか
  2. 小碓尊は、実は神なのだ
  3. 力ではなく徳で治めよ

です。

1と3は、いいでしょう。しかし、2はいただけませんね。これを言ったことで、日本武尊を慢心させてしまったんだと思います。

そして、この慢心による言動が、日本武尊の命を奪うことになるとは、、、

従軍した将軍

吉備武彦

7代孝霊天皇の皇子「稚武彦命」の子孫だといわれています。

「稚武彦命」の異母兄には、四道将軍の一人「吉備津彦命」がいますし、古事記では、吉備津彦命とともに吉備国を平定したともいわれています。

そんなこともあって、「吉備」「武彦」という文字からは、とても強いイメージを感じます。

大伴武日

大伴連(大伴氏)の遠祖で、先代の垂仁天皇からは、武渟川別(阿倍臣祖)・彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)とともに、五大夫の1人として祭祀の事を命じられた人です。

大伴氏は、物部氏と並ぶ軍事氏族で、国軍としての物部氏に対して、大伴氏は親衛隊・近衛兵的な役割を持っていたといわれています。

それは、瓊瓊杵尊が降臨する際の警護役として随伴した「天忍日命」、神武天皇東征で将軍として大活躍した「道臣命」を祖とする氏族に相応しい役職と言えましょう。

このように、大伴武日は、武力と祭祀を併せ持つ人だったのです。

七掬脛

食事係として従軍した七掬脛。しかし、本当に食事係としてだけだったのでしょうか。

この人の先祖は「天久米命」。瓊瓊杵尊が降臨する際に、大伴氏の祖の「天忍日命」とともに、皇孫の警護をした神です。

そして、「天忍日命」と「天久米命」の後裔は、道臣命と久米部として、神武天皇東征の時にも従軍します。久米部は、道臣命の実働隊として存分に戦闘能力を発揮しました。

そして、今回の日本武尊の東征においても、「天忍日命」と「天久米命」の後裔が参加していることになります。

このように、大伴と久米のコンビは、いつも皇孫(天皇)を警固する役目を負っているのです。

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