倭姫命と叢雲剣
景行40年(110年)
十月二日 日本武尊は出発されました。
同月七日 日本武尊は、途中で寄り道して伊勢の神宮に参拝し、倭姫命(やまとひめのみこと)に、
「このたび、天皇の命により、東方の謀反人どもを討伐することとなりましたので、お別れにまいりました。」
と申し上げました。
倭姫命は叢雲剣(むらくものつるぎ)を手に取り、日本武尊に授けて、
「慎重にの。ゆめゆめ油断めされるな。」
とおっしゃいました。
原 文
冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢神宮、仍辭于倭姬命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」 |
ひとことメモ
倭姫命
垂仁天皇の皇女で、天照大神の御杖代として各地を巡幸し、最終的に伊勢の地にお祭りしました。
日本武尊から見ると、お父さんの妹、つまり叔母さんにあたります。
古事記では、熊襲征伐に行く倭建命(日本武尊)に自分の衣装を与えたとあります。蝦夷征伐では叢雲剣を与えて助けます。
名前も倭建と倭姫。まるで、兄妹か、夫婦のような。。。どうも、叔母と甥の関係以上の関係がありそうな気がしません?
叢雲剣
「天叢雲剣」は、瓊瓊杵尊が降臨する際に、天照大神から手渡された三種の神器の一つ。
素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったときに、その尾から出てきた剣で、素戔嗚尊が、自分が持っていてはいけないと思い天照大神に献上したとされています。
この剣を持っていれば、その霊威でもって敵は自ずと服従するのです。だからこその三種の神器。
一方で、この剣の霊威を自分の力だと勘違いしたとするならば、、、
油断するな
倭姫命は日本武尊に、「慎重に。油断するな。」と教えました。
天皇が、「お前は神だ。」と言ったことで、日本武尊の心に、変な自信・慢心が芽生えたのです。それを見抜いた倭姫命がクギを刺してくれたのすが、、、
焼津(やきつ)
この年 日本武尊は、はじめて駿河(するが)に至りました。
その地の賊は、日本武尊に従うように見せかけて欺き、
「この野は、たくさんの大鹿がおりまする。吐く息はまるで朝霧のようで、足は茂った林のようです。狩りに行かれませ。」
と言いました。すると、日本武尊はその言葉を信じて、野に入り獣を探しました。
賊は、王(日本武尊)を殺害するつもりでしたので、野に火を放って焼きました。王は騙されたことを知り、燧(ひうち)で火を起し、迎え火で助かることができました。
ある本では、王が持っておられた叢雲劒がひとりでに抜け、王の周りの草を薙ぎ払ったので、難を逃れることができた。そこで、その劒を名付けて草薙(くさなぎ)という、と書かれている。
王は
「あやうく騙されるところであったわ。」
とおっしゃり、その地の賊どもを一人残らず焼き殺されたので、その地を焼津(やきつ)といいます。
原 文
是歲、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。 |
ひとことメモ
野
日本武尊が焼き殺されそうになった野原の場所はといいますと、
- 草薙神社・・・静岡県清水市草薙
- 焼津神社・・・静岡県焼津市焼津
の2か所に伝承が残っています。
馳水(はしりみず)
更に進んで相摸(さがみ)に着き、上総(かみつふさ)行こうと思われ、海からご覧になって大言を吐き、
「これは何とも小さな海じゃ。跳んで渡ることもできようぞ。」
とおっしゃいました。
すると、海の中ほどまで来た時、突然暴風が起こり、王の船は渡ることが出来ずに波にのまれて漂うしかありませんでした。
この時、王に従っていた妾がおりました。名を弟橘媛といい、穗積氏(ほづみのうぢ)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘です。
その媛が、王に、
「今、暴風が吹き波が速く、王に船が沈みそうになっているのは、きっと海神の心でしょう。どうかこの卑しい妾の身ではありますが、王のお命に代えて、海に入らせてくださいませ。」
と謹んで申し上げるや否や、海に入られました。
するとすぐに暴風は止み、船は岸に着くことができました。そこで、時の人はその海を名付けて馳水(はしりみづ)と呼んだのです。
原 文
亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。 |
ひとことメモ
小さな海
「この海は飛び越えることもできそうな小さな海じゃ。」日本武尊のこの発言で海神が怒ったのです。
自分の不用意な発言で、愛する弟橘姫命を失うことになりました。この発言から、日本武尊の慢心が透けて見えますね。
弟橘媛
物部氏の本流ともいわれる「穂積氏」の出身です。
ここで問題となるのが、弟橘媛のことを「妾」と紹介されている点です。古事記では「后」でした。
そもそも「妾」という単語は、女性が夫に対して使う一人称の謙遜語です。「妾(わたくしめ)が、、、」というような。
ところが、ここでは「王に従っていた妾の弟橘媛」と紹介されています。さらに「卑しい妾(わたくしめ)の身」とも。
ここまで貶める表現は他になく、日本書記編纂者の穂積氏(物部氏)に対する何らかの意図を感じます。
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