日本書紀|日本武尊④|蝦夷征伐から碓日坂まで

2020年10月29日

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蝦夷平定

さて日本武尊は、上総(かみつふさ)を巡ってから、陸奥国(みちのくのくに)に入られました。

この時、船に大きな鏡を掲げて、海路で葦浦(あしのうら)に回り、玉浦(たまのうら)を横に過ぎて、蝦夷(えみし)の国境に着きました。

蝦夷の賊首である嶋津神(しまつかみ)と国津神(くにつかみ)らは、竹水門(たかのみなと)で防衛しようと思いましたが、遥かにの船を見て、その威勢に恐れをなし、とても勝ち目はないと知り、悉く弓矢を捨てて、遠くから拝礼して、

「あなた様の姿を仰ぎ見るに、およそ人間に比べて秀でておられる。もしや神であられましょうか。お名前をお聞かせくださいませ。」

と申し上げると、

「私は現人神(あらひとかみ)の子である。」

とおっしゃられました。

すると、蝦夷等は、全員が恐れ慄き、すぐに衣服の裾をてたくしあげ、波を押し開いて、の船の着岸をすすんで手伝い、さらには自ら逮捕されて刑に服したので、その罪をお許しになり、蝦夷の長らを捕虜として従わせました。

 原 文

爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。

 ひとことメモ

なんともあっけなく蝦夷を平定しました。

景行天皇の命にあった「戦わずして、徳を以って平定せよ」を実践したということでしょう。

地名について

竹水門(たかのみなと)

上総(千葉県北部)を巡って、陸奥国(福島県以北青森県までの太平洋側)に入り蝦夷の国境についたとあります。

そして蝦夷は竹水門を防衛線としたということですから、竹水門が国境と考えていいでしょう。ですから、そこから北が蝦夷の国、そこから南がヤマト王権の征服地だったということになりましょう。

では竹水門はどこなのでしょうか。候補地をいくつか挙げておきます。

  • 常陸国多珂郡(茨城県日立市久慈町)
  • 陸奥国行方郡小高川(福島県南相馬市小高)
  • 陸奥国多賀郡(宮城県多賀城市)

古事記だと、倭建命の東征の北限は筑波あたりですので、これと合致するという考え方だと、常陸国多珂郡の久慈川河口あたりが有力候補となりますが、ここじゃあ陸奥国に入ったとは言えないです。

宮城県多賀城市だと、蝦夷の国の中心だと思われます。国境というには開けすぎてます。

そういう意味で、福島県南相馬市小高あたりは山と海が迫っていて細くなっている場所で、国境という風情が漂っています。私的には、ここが有力候補としたいです。

葦浦(あしのうら)

こちらも決め手はないのですが、鴨川市の江見吉浦だという説が有力なようです。

「海路で葦浦に回った」ということですから、「半島や岬を回り込んだ所」というニュアンスが感じられます。

鴨川市の江見吉浦は、内房から外房へ房総半島をぐるっと回りこんだ所にありますから、ピッタリです。

玉浦(たまのうら)

玉の浦は九十九里浜の古称だそうです。

「玉浦を横に過ぎて」とあります。「横目に見ながら進む」とニュアンスを感じます。

九十九里浜の美しい海岸線を横目に見つつ北上している様子を想像しますね。

酒折宮

蝦夷を平定し終わり、日高見国(ひたかみのくに)から引き返して、西南(ひつじさるのかた)の常陸(ひたち)を経て、甲斐国(かひのくに)の酒折宮(さかをりのみや)に滞在しました。

灯をともして夜の食事をされ時に、御付きの者に

新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことだろうか
と、歌でお尋ねになりました。

御付きの者たちは、答えることができませんでした。

時に、燭を灯していた者がおりました。その者が王の歌に続けて歌で、

日数を並べ、夜では九夜、昼では十日です

と、お答えしました。

そこで、その燭を灯した人の聡明さを褒められて、褒賞をお与えになられました。

酒折宮に居られるときに、靭部(ゆけひのとも)を大伴連(おほとものむらじ)の遠祖の武日(たけひ)にお与えになられました。

 原 文

蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、

珥比麼利 菟玖波塢須擬氐 異玖用伽禰菟流

諸侍者不能答言。時有秉燭者、續王歌之末而歌曰、

伽餓奈倍氐 用珥波虛々能用 比珥波苔塢伽塢

卽美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮、以靫部賜大伴連之遠祖武日也。

 ひとことメモ

酒折宮

甲府市酒折にある月見山の中腹に「酒折宮旧跡」があり、山裾に「酒折宮」があります。どちらがどうなのかは定かではないです。

この宮で行われた「何日になる?」「9夜10日ですよ」という歌のやり取りが、日本で初めての連歌だとされ、酒折宮は連歌発祥の地とされています。

 

吾嬬者耶(あずまはや)

ここに日本武尊は、

「蝦夷の凶悪な首領については、皆、その罪に伏した。ただ、信濃国・越国については、未だ皇化に従おうとはしない。」

とおっしゃいました。

そして、甲斐(かひ)から北の、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を回って、西の碓日坂(うすひのさか)に到着しました。

日本武尊はことあるごとに弟橘媛のことを思われていたので、碓日嶺(うすひのみね)に登られ東南の方向を望み

「吾嬬(あづま)はや」(我が妻よ)

と三度嘆かれました。それで、この山より東の国々を吾嬬国(あづまのくに)というのです。

ここで道を分けて、吉備津彦を越国に遣わし、その地形の状況や人民の様子を監察させました。

 原 文

於是日本武尊曰「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶嬬、此云菟摩。」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。於是、分道、遣吉備武彥於越國、令監察其地形嶮易及人民順不。

 ひとことメモ

碓日坂

今の群馬県と長野県の県境、長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町を通る「旧中山道の碓氷峠」に至る登坂が日本武尊が通った「碓日坂」だと言われています。

別伝に「碓日坂で濃霧に見舞われた日本武尊を八咫烏が道案内をしたので、熊野三山をお祀りした。」という伝承があり、まさに熊野皇大神社が鎮座しています。

一方、古墳時代の街道はもっと南の、長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉を通る「入山峠」を越えるルート「古東山道」だったので、日本武尊もそのルートを通ったんじゃないかとも。ここからは、古代祭祀場跡の入山峠遺跡が発掘されています。

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