日本書紀|日本武尊⑦|日本武尊の系譜
武内宿禰
景行51年(121年)
正月七日 群卿を招いて数日に渡る宴を催されました。この時、皇子の稚足彦尊(わかたらしひこのみこと:成務天皇)と武内宿禰(たけうちのすくね)は、宴に参上しませんでした。
天皇は、二人を召し出し、その理由をお尋ねになると、
「楽しい酒宴は、群卿百官が、遊びに夢中になり、国家の事を忘れてしまうでしょう。もし、狂人が現れ、垣根戸の隙を伺いでもしたらどうなることでしょう。それ故、非常事態に備えて、門下で待機しておりました。」
と申し上げたところ、天皇は
「あっぱれである。」
とおっしゃり、ことのほか寵愛なさいました。
八月四日 稚足彦尊を立てて、皇太子とされました。この日、武内宿禰を棟梁之臣(むねはりのおみ)に任じました。
原 文
時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。 |
立太子
最初に、日本武尊が佩いておられた草薙剣は、今は尾張国の年魚市郡(あゆちのこほり)の熱田社(あつたのみやしろ)にあります。
また、伊勢神宮に献じられた蝦夷らは、昼夜問わずに騒々しく、振る舞いも無礼でした。
時に倭姫命は、
「この蝦夷ども、神宮に近づくべからず。」
とおっしゃり、朝廷に進上され、御諸山の傍に置くことにしました。
しかし、瞬く間に神山の樹木を悉く伐採したり、叫び声をあげて里人を脅えさせたりしました。
これを天皇が聞き、群卿に詔して、
「神山の傍に置いた蝦夷は、本来的に獣の心を持っていて、畿内に住ませるのは難しいだろう。畿外に分けて住まわせよ。」
とお命じになられました。
これが今の、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五か国にいる佐伯部の祖です。
原 文
五十一年春正月壬午朔戊子、招群卿而宴數日矣。時皇子稚足彥尊・武內宿禰、不參赴于宴庭。天皇召之問其故、因以奏之曰「其宴樂之日、群卿百寮、必情在戲遊、不存國家。若有狂生而伺墻閤之隙乎。故侍門下備非常。」時天皇謂之曰「灼然。灼然、此云以椰知舉。」則異寵焉。
秋八月己酉朔壬子、立稚足彥尊、爲皇太子。是日、命武內宿禰、爲棟梁之臣。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭姬命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。 |
ひとことメモ
棟梁之臣(むねはりのおみ)
武内宿禰が棟梁之臣に任ぜられました。
棟梁(とうりょう)は、今は「大工さんの親方」に使われるぐらいだと思います。
元々の意味はというと、
棟(むね)と梁(はり)は屋根構造上の重要な部分であり、建物の高い所にあります。ですから、国家の組織の重要人物を棟梁之臣と呼んだのです。
日本武尊の妃と皇子
初め、日本武尊は両道入姫皇女(ふたぢのいりひめのみこ )を妃として娶り、
- 稲依別王(いなよりわけのみこ)
- 次に、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
- 次に、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)
- 次に、稚武王(わかたけのみこ)
を生み、兄の稲依別王は犬上君(いぬかみのきみ)と武部君(たけるべのきみ)の始祖です。
また妃の、吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)は
- 武卵王(たけかひごのみこ)
- 十城別王(とをきわけのみこ)
を生み、兄の武卵王は讃岐綾君(さぬきのあやのきみ)の始祖で、弟の十城別王は伊豫別君(いよのわけのきみ)の始祖です。
次の妃の、穂積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)の娘の弟橘媛は
- 稚武彦王(わかたけひこのみこ)
を生みました。
原 文
初日本武尊、娶兩道入姬皇女爲妃、生稻依別王、次足仲彥天皇、次布忍入姬命、次稚武王、其兄稻依別王、是犬上君・武部君、凡二族之始祖也。又妃吉備武彥之女吉備穴戸武媛、生武卵王與十城別王、其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也、弟十城別王是伊豫別君之始祖也。次妃穗積氏忍山宿禰之女弟橘媛、生稚武彥王。 |
ひとことメモ
日本武尊と弟橘媛の皇子
先代旧事本紀やホツマツタヱでは、日本武尊と弟橘媛との間に生まれた皇子は7人です。
- 稚武彦王・・・日本書紀・古事記・先代旧事本紀・ホツマツタヱ
- 稲入別命・・・先代旧事本紀・ホツマツタヱ
- 蘆髪蒲見別王・・・古事記・先代旧事本紀・ホツマツタヱ・(日本書紀:系譜には記載なし)
- 武養蚕命・・・先代旧事本紀・ホツマツタヱ
- 息長田別王・・・先代旧事本紀・ホツマツタヱ・(古事記:母の名は記載なし)
- 五十目彦王・・・先代旧事本紀・ホツマツタヱ
- 伊賀彦王・・・先代旧事本紀・ホツマツタヱ
弟橘媛は、物部宗家「穂積氏」の出身です。先代旧事本紀は物部氏メインで書かれたものといわれていますので、弟橘媛の子についても、詳しく記載されているのだと理解しています。
言い換えると、記紀は適当に記載したのか???
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