日本書紀|第二十六代 継体天皇⑪|加羅国の多沙津を百済に与える

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加羅国からのくに多沙津たさつを百済に?

継体23年 己酉つちのとのとり 529年

春三月、百済王くだらおう下哆琍あるしたりの国守である穂積押山臣ほずみのおしやまのおみに語って、

「朝貢の使者が、岬を避けるとき、風波に苦しみます。このため船荷を濡らして、すべてが損なわれて価値がなくなってしまいます

願わくば、加羅国からのくに多沙津たさつ「44」を私の朝貢の海路としたいのだが」

と言いました。

押山臣おしやまのおみはこれを聞いて伝奏てんそうしました。

この月、物部伊勢連父根もののべのいせのむらじちちね吉士老きしのおきならを遣わして、多沙津たさつを百済の王に与えました。

このとき、加羅からの王が勅使に、

「この津は官家が置かれて以来、私が朝貢のときにわたる港です。どうして隣国に与えるというのでしょう。初めに封じられた土地と違ってます」

と主張しました。

勅使である父根らは、このため、百済に加羅の多沙津たさつを与えるのは難しいと思って、大島に引き返しました。

 原 文

廿三年春三月、百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰「夫朝貢使者、恆避嶋曲謂海中嶋曲崎岸也。俗云、美佐祁毎苦風波。因茲、濕所齎、全壞无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。」是以、押山臣爲請聞奏。

是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百濟王。於是、加羅王謂勅使云「此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。」勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。

 

新羅と加羅の同盟と破局

これとは別に録史ふひとを遣わして、結局は扶余ふよ百済)に与えました。このため、加羅から新羅しらぎと結んで、日本を恨みました。

加羅王からおう新羅王しらぎおうの女を娶って、息子が生まれました。

新羅は当初、女を送るときに一緒に百人の侍女をつけ、諸県に分散して新羅の衣冠いかんを着けさせました。「45」

加羅の阿利斯等ありしとは、その服が変わったことを怒り、使者を遣わして女たちを送り返しました。

新羅は面目を失って、王女を召還しよう思い、

「お前が招いたから、私も婚姻を許したのだ。今こんなことになったのなら、王女を返してもらおう」

と言いました。

加羅から己富利知伽こほりちか「46」が、

「夫婦として結婚して、今更どうして離すことができようか。息子もいる。これを棄ててどこに行けるというのか」

と答えました。

いろいろとあり、新羅しらぎ刀伽とか古跛こへ布那牟羅ふなむらの三つの城を取り、また、北の境の五つの城も取りました。

 原 文

別遣錄史、果賜扶余。由是、加羅、結儻新羅、生怨日本。加羅王、娶新羅王女、遂有兒息。新羅、初送女時、幷遣百人爲女從、受而散置諸懸令着新羅衣冠。阿利斯等、嗔其變服、遣使徵還。

新羅、大羞、翻欲還女曰「前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。」加羅己富利知伽 未詳 報云「配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。」遂於所經、拔刀伽・古跛・布那牟羅三城、亦拔北境五城。

 

近江毛野の派遣

この月に、近江毛野臣おうみのけなのおみを使者とし、安羅あんらに遣わされた。

みことのりして、新羅に 南加羅ありひしのから 、喙己呑とくことん  の再建を促しました。

百済くだら将軍君尹貴いくさのきみいんくい麻那甲背まなこうはい麻鹵まろなどを安羅 あんらに遣わして 詔勅を拝聴させました。

新羅しらぎは、 官家 みやけとの関係が崩れることを恐れて、上官を遣わさず、夫智那麻礼ぶちなまれ奚奈麻礼けなまれ下官を安羅あんらに遣わして詔勅みことのりを拝聴させました。「47」

安羅あんらは新しく高堂を建て、 勅使を案内して昇り、国主はその後に続いて階段を昇りました。

国内の高官で昇殿が許されたのは一人か 二人だけ、百済くだらの使者の将軍いくさのきみらは堂の下で、数ヶ月の間、何度も堂上で謀議が行われたましたが、将軍いくさのきみらは常に庭に残されたことを恨みました。

 原 文

是月、遣近江毛野臣使于安羅、勅勸新羅更建南加羅・喙己呑。百濟遣將軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵等、往赴安羅、式聽詔勅。新羅、恐破蕃國官家、不遣大人而遣夫智奈麻禮・奚奈麻禮等、往赴安羅、式聽詔勅。

於是、安羅、新起高堂、引昇勅使、國主隨後昇階、國內大人、預昇堂者一二。百濟使將軍君等在於堂下、凡數月再三、謨謀乎堂上。將軍君等、恨在庭焉。

 

ひとことメモ

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加羅の国の多沙津

加羅の国とは、伴跛国を盟主とした「大加耶連盟」のことを指します。そして、多沙津は、前述の「带沙江」の同じといいます。

このように、百済が大伽耶連盟の带沙江が欲しいと言ってきたわけですが、継体7年の条にも、よく似た記述があります。

「百済が己汶こもんが欲しいと言ってきた。関係国が集まり協議した結果、己汶こもん滞沙たさが与えられた」

という内容です。

ですから、带沙江のある带沙国は、継体7年に百済国に併合されているはずなんですが、またここで、百済は多沙津が欲しいと言ってきたんです。

これらから、百済と大伽耶連盟との間で、何度も押し退きが繰り返されてきたのではないかと想像できます。

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新羅の衣冠をつけた女性たち

新羅から来た女性たちが、新羅の衣装を身に付けて加羅の各村に配置されました。

これは新羅が自国の文化を加羅に広めようとした=風俗風習の同化=文化的侵略を目論んだという見方ができると思います。

というのも、加羅王は新羅との同盟を解除するほどに怒ったという結果が物語っています。

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加羅から己富利知伽こほりちか

己富利知伽こほりちかは、ウイキペディアによると大伽耶の代第9代王の異脳王だとしています。

大伽耶(大加羅)は、朝鮮半島南部の百済や新羅に属さない小国群の総称、もしくは小国群の盟主国を指す尊称、と定義されています。

ですから、盟主国を指すと解釈すれば、己富利知伽こほりちかは伴跛国王となりますね。

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上官が来なかった新羅

新羅は、上官を派遣しませんでした。その理由は新羅と日本の関係を維持するためだとのこと。

新羅としては、日本と正面対決は避けたかったが、南加羅ありひしのから 、喙己呑とくことんを再建することは拒みたかったということなのでしょう。

ビジネスの場面でも、受け入れがたい提案に対しては決裁権を持たない者で対応させて「持ち帰って検討します」と言わせますよね。

国主や全権委任の上官だと、イエスかノーか返答しなければなりません。おそらく、この件なら新羅は「ノー」と言わなければなりません。そうなると、自ずと日本との関係は悪化します。

北には高句麗が、西には百済が。そのうえ南から日本が圧力をかけると、、、

新羅の下官の派遣は、四面楚歌の状態に陥ることを避けようとした対応だったということが想像できます。

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