日本書紀|第二十六代 継体天皇⑥|百済に任那の4県を割譲する

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任那四県の割譲

継体6年 壬辰みずのえのたつ 512年

夏四月六日、穂積臣押山ほづみのおみおしやまを百済へ遣わし、筑紫国ちくしのくにの馬四十匹を与えました。

冬十二月、百済くだらが使者を送り、調を献上し、上奏文で、任那国みまなこく上哆嘲おこしたり下哆嘲あろしたり娑陀さだ牟婁むろの四県「19」を欲しいと願い出ました。

哆唎たりの国守の 穂積臣押山ほづみのおみおしやま が奏上して、

「この四県は百済くだらに接していて、日本から遠く隔っています。(百済と四県は)朝夕に通い易く、鶏犬の声も(百済と四県の)どちらの鶏犬か鳴いているのかを聞きわけるのも難しいほどです。

今、百済にお与えになり同国にすることは、固め保つための策としては、これに勝るものは無いと思われます。

県を与えて合併しても、後世には危険になる可能性はあります。でも、切り離しておいたのでは、何年ともたないでしょう。」「20」

と申し上げました。

大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらも、つぶさに意見を聞いた上で、この策に同調すると奏上しました。そして、物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいを、勅宣ちょくせん の使者とされました。

 原 文

六年夏四月辛酉朔丙寅、遣穗積臣押山、使於百濟。仍賜筑紫國馬卌匹。

冬十二月、百濟遣使貢調、別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰「此四縣、近連百濟、遠隔日本、旦暮易通、鶏犬難別。今賜百濟合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危、況爲異場、幾年能守。」大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。廼以物部大連麁鹿火、宛宣勅使。

物部大連 妻の諫言に従う

物部大連が 難波館なにわのやかた に向かって出発し、百済くだらの使者に勅宣しようとしました。しかし、その妻が固く諫めて、

住吉大神すみのえのおおかみは、初めて海のむこうの金銀の国、高麗こま百済くだら新羅しらぎ任那みまななどを、胎中の応神天皇にお授けになりました。

そこで神功皇后は、大臣の武内宿禰たけのうちのすくねと共に、国毎に官家みやけを設けて海の向こうの守りとされ、長く続いてきました。

そのような由来があるのに、これを割いて与えてしまったら、もとの国境と違ってきます。そうしたら、後世長く誹謗を受けることになるでしょう「21」

と言いました。

大連おおむらじは返して、

「教え示すことは理に適っているが、それでは天皇の勅に背くことになる」

と言いました。

妻は強く諫めて、

「病気と申し上げて、伝えなければ?」

と言いました。

大連おおむらじは諫めに従いました。

そこで改めて勅宣の使いを出し、賜物と合わせて制旨せいしをつけ、文に基づき任那みまなの四県を与えられました。

 原 文

物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客、其妻固要曰「夫住吉大神、初以海表金銀之國高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故、大后息長足姬尊與大臣武內宿禰、毎國初置官家爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉、縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。」

大連、報曰「教示合理、恐背天勅。」其妻切諫云「稱疾、莫宣。」大連依諫。

由是、改使而宣勅、付賜物、幷制旨、依表賜任那四縣。

撤回しようとしても、あとの祭り

大兄皇子おおえのみこ安閑天皇あんかんてんのう)は、 別に仕事があって、国を与える一件に関わることができず、あとになって勅宣みことのりのことを知られました。

驚き悔いて改めたいと思われ、のりごとして、

「胎中天皇(応神天皇)の御代からずっと官家みやけを置いてきた国を、軽々に隣国の要求に軽々しく従って、たやすく与えてしまってよいものか!「22」

と言われました。

そこで日鷹吉士ひたかのきしを遣わして、改めて百済くだらの使者に伝えました。

すると使者が答えて、

「父天皇が事情をお考えになり、みことのりを賜わったことは、もう終わったことです。子である皇子が、どうして天皇の勅を違えて、みだりに改めてのりごとできましょうや。これはきっとウソでしょう。

たとえこれが本当だとしても、杖の大きな頭で打つのと、杖の小さい頭で打つのと、どっちが痛いでしょうか」

と言い、交渉は失敗に終わりました。

ある人は流言して、

大伴大連おおとものおおむらじ哆唎国守たりのくにもり穂積臣押山ほづみのおみおしやまとは、 百済くだらから賄賂を受け取っている」

と言いふらしました。

 原 文

大兄皇子、前有緣事、不關賜國、晩知宣勅、驚悔欲改、令曰「自胎中之帝置官家之國、輕隨蕃乞、輙爾賜乎。」

乃遣日鷹吉士、改宣百濟客。使者答啓「父天皇、圖計便宜、勅賜既畢。子皇子、豈違帝勅、妄改而令、必是虛也。縱是實者、持杖大頭打孰與持杖小頭打、痛乎。」遂罷。

於是、或有流言曰「大伴大連與哆唎國守穗積臣押山、受百濟之賂矣。」

 

ひとことメモ

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上哆嘲おこしたり下哆嘲あろしたり娑陀さだ牟婁むろ

この4県は朝鮮半島の南西にあったようです。

このエリアには、日本の前方後円墳に似た形状の古墳が多数存在します。その埋葬品などから、福岡・佐賀あたりの豪族の墳墓である可能性があるとされています。

北九州の豪族が朝鮮半島南西部に入植していたのでしょう。

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4県割譲の理由が変?

哆唎たりの国守の 穂積臣押山ほづみのおみおしやまは、百済から来た使者の4県割譲依頼を受けて 、すんなり朝廷に上奏しました。

その理由が、

  • 日本から遠いから管理できない。百済に隣接しているので百済の管理下に置いた方がいい。
  • 百済の管理下になっても、後世には危険になる可能性はある。がしかし、今のままではすぐに危険になるだろう。

なんかおかしいですよね。

自国の領土を他国に譲り渡すなんて、あり得ないと思うのですよ。穂積臣押山はいったい誰の臣下なのかすら疑問に思えてきます。

でも、穂積臣押山が上奏してきた百済の要望は、これまたすんなりと大伴金村大連が受け入れていますから、ますます違和感を覚えてしまいます。

これに関わった人たちの思考を、以下の通り想像してみました。

継体朝は、倭国の盟主の立場を維持するために、朝鮮半島さらには中国大陸の先進技術や物品を得るルールが必要だった。

そのためには百済とは友好的な関係を築いておかないといけなかった。

朝鮮半島は稲作に適さない気候だったので、そもそも朝鮮半島で領土を広げる意識は低かった。
ルートが確保できれば、それでよかった。だから事を荒立てない方がいいと判断した。

さらには、ルート上の4県を北九州の豪族が支配しているから、大陸の先進技術や物品をいち早く得ることができるのは彼ら北九州の豪族だ。

これが九州豪族の勢力増強につながっていて、このままだと早い段階で北九州勢が反乱を起こすかもしれない。いやもう、その兆しが見えている。

今百済に割譲してもしなくても、いずれは百済に取られるのだろうから、北九州勢を追い出すためにも、与えて恩を売っておくためにも、申し出を受けておく方ほうがよいのでは?

朝鮮半島における日本の影響力が低下してきた現状と、日本人独特の事なかれ主義・先延ばし主義が招いた判断だと思いました。ちがうかな?

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妻の意見

妻は4県割譲の勅宣に向かう夫に対して、

  • 朝鮮半島は住吉大神が応神天皇に与えた地
  • そこに官家を設けて守りとしてきた長い歴史がある
  • これを与える役割をすれば、将来必ず凶となる

と言って諫めました。この考え方には私も同感です。これが普通だと思います。

妻がこのように意見するということは、この当時でも「国土を与えること」に対しては、反対意見が多かったということでしょう。

少なくとも、夫である物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいは反対の立場だったと思われます。

しかしながら、仮病を勧めるのはいかがなものかと思いますが、、、

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大兄皇子おおえのみこ安閑天皇あんかんてんのう)も反対派

任那の4県を百済に与えるという政策は、物部大連だけでなく大兄皇子も大反対でした。

やはり、世間の多くは反対だったんだろうと思われます。

この政策の決断は大伴金村大連が下してます。継体天皇の了承は取り付けたことでしょう。これを見ると、継体天皇の立場は大伴金村の傀儡だったのかな?と感じますね。

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