日本書紀|第十四代 仲哀天皇①|皇后・妃と皇子たち

足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
第十四代 仲哀(ちゅうあい)天皇

 

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即位前

足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと:仲哀天皇)は日本武尊の第二子で、母の皇后は垂仁天皇の娘で両道入姫命(ふたぢのいりびめのみこと)とおっしゃいます。

天皇は容姿端麗で、身長が10尺(3メートルほど)ありました。

成務天皇の48年

皇太子に立たれました。御年31歳でした。成務天皇に皇子がいなかったため皇太子となったのです。

成務60年に

成務天皇が崩御されました。

明年(成務61年)

九月六日に倭国の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に埋葬申し上げた。

 原 文

足仲彥天皇、日本武尊第二子也。母皇后曰兩道入姬命、活目入彥五十狹茅天皇之女也。天皇容姿端正、身長十尺。稚足彥天皇卌八年、立爲太子。時年卅一。稚足彥天皇無男、故立爲嗣。六十年、天皇崩、明年秋九月壬辰朔丁酉、葬于倭國狹城盾列陵。盾列、此云多々那美。

 ひとことメモ

狭城盾列陵(さきのたたなみ)

成務天皇の御陵「狭城盾列陵」は、奈良県奈良市山陵町にある「佐紀石塚山古墳」に治定されています。

東隣にはピッタリとくっつくように「佐紀陵山古墳」(垂仁天皇皇后陵に治定)があり、南隣にもピッタリとくっつくように、「佐紀高塚古墳」(称徳天皇陵に治定)があります。

あんでこんなにピッタリとくっつけて作ったのか、、、本来の被埋葬者が判れば、その謎も解明されるかもしれませんね。

 

蘆髪浦見別王誅殺

仲哀(ちゅうあい)元年 壬申(みずのえのさる) 192

正月十一日 仲哀天皇が即位されました。母の皇后を尊んで皇太后と申し上げました。

十一月一日 天皇は群臣に詔して、

「弱冠(20歳)になる前に父が亡くなられ、その神霊は白鳥となって天上に昇られた。父を慕う気持ちは一日たりとも止むことはない。願わくば白鳥を捕らえて陵の周りの池で飼いたいと思う。そうして、その鳥を見ながら、慕う気持ちを慰めようと思う。」

とおっしゃいました。そこで、諸国に命じて白鳥を献上させました。

閏十一月四日 越国(こしのくに)が白鳥四羽を献上することになりました。

その鳥を持ってきた使いの者が、菟道河(宇治川)の畔で宿まった時のこと。蘆髪浦見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が、その白鳥を見て、

「何処に持っていくのか。」

と尋ねました。越の人が、

「天皇が、父王を偲び、白鳥を飼われるのです。そこでこの白鳥を献上するのです。」

と答えました。すると、浦見別王は越の人に

「白鳥とはいっても、焼けば黒鳥になってしまうぞ。」

といって、白鳥を強奪してしまいました。

越の人が参上してこのことを天皇に報告すると、天皇は、蒲見別王が先王に対する礼がないことを憎まれて、すぐに兵を派遣して誅殺されました。

蒲見別王は、天皇の異母弟です。

時の人は、

「父は天であり、兄もまた君である。天を侮り、君に背いたならば、どうして誅殺を免れることができようか。」

と言いました。この年の太歳は壬申(みづのえのさる)でした。

 原 文

元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位。秋九月丙戌朔、尊母皇后曰皇太后。冬十一月乙酉朔、詔群臣曰「朕、未逮于弱冠、而父王既崩之。乃神靈化白鳥而上天、仰望之情一日勿息。是以、冀獲白鳥養之於陵域之池、因以覩其鳥、欲慰顧情。」則令諸國、俾貢白鳥。

閏十一月乙卯朔戊午、越國、貢白鳥四隻。於是、送鳥使人、宿菟道河邊。時、蘆髮蒲見別王、視其白鳥而問之曰「何處將去白鳥也。」越人答曰「天皇戀父王而將養狎、故貢之。」則蒲見別王、謂越人曰「雖白鳥而燒之則爲黑鳥。」仍强之奪白鳥而將去。爰越人參赴之請焉、天皇於是、惡蒲見別王无禮於先王、乃遣兵卒而誅矣。蒲見別王則天皇之異母弟也、時人曰「父是天也、兄亦君也。其慢天違君、何得兔誅耶。」是年也、太歲壬申。

 ひとことメモ

このお話は、兄弟間で勢力争いがあったことを物語っているのでしょう。

興味深いのは、父や兄に対しての不義は誅殺の対象であるという認識を人民が持っていたという点と、この年が壬申だということでしょう。

壬申といえば、壬申の乱。天武天皇が大海人皇子だったころに起こした古代史最大の反乱です。

兄である天智天皇の皇太子「大友皇子」に対して反乱を起こした大海人皇子の立場は、この仲哀天皇に対する蒲見別王の立場に近しいように思えます。

意味深な物語だと思います。

 

仲哀天皇の皇后・妃・皇子たち

仲哀2年 癸酉(みずのとのとり) 193

正月 気長足姫尊(おき なが たらし ひめ の みこと )を皇后とされました。

これより先に、叔父の彦人大兄(ひこひとのおほえ)の娘の大中姫(おほなかつひめ)を妃をして、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)を生んでいました。

次に、來熊田造(くくまたのみやつこ)の祖の大酒主(おほささぬし)の娘の弟媛(おとひめ)を娶り、譽屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生まれました。

二月六日 角鹿(つぬが:敦賀)に御幸されました。行宮(かりみや)をお建てになり、笥飯宮(けひのみや)といいます。

同月 淡路屯倉(あわぢのみやけ)を定められました。

 原 文

二年春正月甲寅朔甲子、立氣長足姬尊爲皇后。先是、娶叔父彥人大兄之女大中姬爲妃、生麛坂皇子・忍熊皇子。次娶來熊田造祖大酒主之女弟媛、生譽屋別皇子。二月癸未朔戊子、幸角鹿、卽興行宮而居之、是謂笥飯宮。卽月、定淡路屯倉。

 ひとことメモ

麛坂皇子・忍熊皇子

かつて大王家の後継ぎは、第一子が国家祭祀権を担い、第二子が皇位に就くというルールがあったように見受けられるという説があります。

この二人は仲哀天皇の子で、第一子と第二子です。この子たちは、仲哀天皇が崩御したことを知ると兄が祭祀を、そして弟の忍熊皇子が皇位に就く予定だったと思います。少なくとも、本人たちはそう思っていたでしょう。もしかしたら、即位していたのかもしれませんが。

がしかし、仲哀天皇の妃の一人の気長足姫が、果敢にも熊襲を平定して新羅征伐を敢行します。そして九州で皇子を生みます。新羅征伐から凱旋した母子は人気が高く、群臣たちの心を完全に掌握していました。

この兄弟にとって、すこし邪魔な存在ですね。でもまさか、皇位を奪われるとは、、、思ってなかったことでしょう。

気長足姫尊

神功皇后のことです。和名には「尊」、漢名には「神」が付けられていますから、超特別な皇后と言えましょう。

同じ「みこと」と読んでも、「尊」と「命」には大きな違いがあります。「尊」は天皇となる人に付けられる尊称ですから。

となれば、本来は天皇だったのかも知れません。日本書記では、神功皇后=卑弥呼であるとほのめかしています。

さて、この姫、父は息長宿禰王で、母は新羅から渡来した天日槍の末裔です。北近江・若狭・丹波・但馬を勢力範囲とする、ヤマト王権に対抗できるぐらいの一大勢力の出身だということです。

日本武尊が伊吹山で戦って敗北した相手「山の神」は、この天日槍・息長連合軍だろうと言われてますから、仲哀天皇がこの姫を妃として迎えたということは、天日槍・息長連合軍を掌握したか、和睦したかを意味するのではないでしょうか。

笥飯宮(けひのみや)

福井県敦賀市曙町にある気比神宮が笥飯宮の跡地だと言われています。

天皇は即位後1年で皇后を迎え、その翌月には敦賀に笥飯宮を建てて滞在。その翌月には南国巡幸へ。

天皇が近江国から敦賀に行って笥飯宮を建てたのは、皇后がコチラ方面の出身だったからでしょう。

結婚した翌月に、嫁さんの実家近くに家を建てて住まうとは、なんか嫁と嫁の実家に気を遣っているように感じられません?

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