日本書紀|第十四代 仲哀天皇②|穴門豊浦宮
熊襲征伐のため九州へ向かう
仲哀2年 癸酉(みずのとのとり) 193
三月十五日 南国(みなみのくに)を巡幸されました。この時には、皇后と多くの官僚を留め置いて、二~三人の卿大夫(まへつきみたち)と官人数百人だけで軽くお出かけになられました。
紀伊国に着かれて、德勒津宮(ところつのみや)に滞在されました。
この時、熊襲が反乱を起し朝貢しませんでした。天皇は熊襲国を征伐しようと考えられ、德勒津を出発し、船で穴門(あなと)に向かわれました。
そしてその日に、角鹿に使いを出して、皇后に
「その津を出発して穴門で逢おう。」
と伝えました。
六月十日 天皇は豊浦津(とゆらのつ)に着かれました。
浮き鯛
皇后が角鹿を出発して渟田門(ぬたのみなと)に着かれ、船上で食事をしました。その時、海鰤魚(鯛)が船のそばに集まってきましたので、皇后がお酒をお与えになられると、鯛が酔って浮かび上がってきたました。
海人は多くの魚を獲ることができました。そこで、
「聖王(ひじりのきみ)から頂いた魚だ。」
と喜びました。
その場所の魚が六月になると必ず酔ったように浮かび上がってくるのは、これが始まりです。
七月五日 皇后が豊浦津(とゆらのつ)で停泊されました。この日、海の中から如意珠(にょいのたま)を得られました。
九月 宮室(みや)を穴門(あなと)にお建てになり、これを穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)といいます。
原 文
三月癸丑朔丁卯、天皇巡狩南國、於是、留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之、至紀伊國而居于德勒津宮。當是時、熊襲叛之不朝貢、天皇於是、將討熊襲國、則自德勒津發之、浮海而幸穴門。卽日、使遣角鹿、勅皇后曰「便從其津發之、逢於穴門。」
夏六月辛巳朔庚寅、天皇泊于豐浦津。且皇后、從角鹿發而行之、到渟田門、食於船上。時、海鯽魚多聚船傍、皇后以酒灑鯽魚、鯽魚卽醉而浮之。時、海人多獲其魚而歡曰「聖王所賞之魚焉。」故其處之魚、至于六月常傾浮如醉、其是之緣也。秋七月辛亥朔乙卯、皇后泊豐浦津。是日、皇后得如意珠於海中。九月、興宮室于穴門而居之、是謂穴門豐浦宮。 |
ひとことメモ
熊襲の反乱
熊襲が反乱を起こしたのは、これで3回目?かな?討伐しても討伐しても、また息を吹き返します。
熊襲の本拠に一つ「球磨地方」の遺跡から、当時の最高技術を誇る土器「免田式土器」や、日本に3枚しかないという金色に輝く「リュウ金獣帯鏡」が発掘されていることから、熊襲は朝鮮半島との交易ルートを、”独自” に持っていたと推定されています。
つまりは、この当時の熊襲は、新羅あたりと手を結び、ヤマト王権からの独立を画策していたのではないかと思うのです。
徳勒津宮(ところつのみや)
和歌山市新在家と和歌山市中之島に、それぞれ「德勒津宮の碑」が立っています。
古代においては、ここが紀ノ川の河口でした。中之島という地名が残っていることからも、きっと大きな中洲が形成されていて、そこに仮宮を建てたんだろうと想像します。
天皇の南国巡幸は、紀伊半島をぐるっと回ったようで、三重県の紀伊長島の豊浦神社に伝承が残っています。
ちなみに、その豊浦神社の由来に、
「仲哀天皇は英雄日本武尊の御子でありながら、御性質は、すこぶる優しかった。政務を神功皇后に委任して南海巡幸の旅に出た。」
とあります。
身長3メートルもありながらも、仲哀天皇は心優しい性格だったんですね。
渟田門(ぬたのみなと)の浮き鯛
一般的に渟田門とは、敦賀半島と三方五湖から延びる常神半島との間の海域のことを指すらしいです。
その海域で、酒に酔った鯛が浮かんでくるという現象に出くわしましたが、実は、酒に酔って浮かんだのではないようです。
普段は海底を泳ぐ鯛ですが、初夏の大潮の日、潮流にもまれて海面近くまで急上昇してしまった鯛は、浮袋が膨張してしまい、そのまま海面に浮き上がる。
そんな現象があるらしいです。これを専門用語で「浮き鯛」といいます。そのまんまですが。。。
しかし、浮き鯛と言えば、瀬戸内海の広島県三原市能地沖の「浮き鯛」が有名らしいですよ。
また、低水温にも弱いらしく、12度を下回ると冬眠状態になるらしいです。その場合も浮き鯛がみられるとのことですが、6月の出来事として書かれています。旧暦の6月といえば真夏ですし。ちょっと考えにくいです。
広島県三原市能地沖の方が条件的には合うのですが、場所が瀬戸内海ですので、???です。
穴門
穴門(あなと)は、関門海峡のことを指します。
穴門と呼ばれる由来は、
- 瀬戸内海からこの海峡に入ると、海峡が穴のように見えるから。
- 古代には、本州と九州との間は、山によって陸続きとなっていて、その下に穴が開いていて海水が流れていたから。神功皇后が船出の際に、その山がドーンと落ちて海峡となった。
などといわれています。
しかし、地形学上、ここは6000年前から海峡だったとされていますので、2の説は伝説ですね。おそらくは、旧約聖書の「モーゼが海を割ってユダヤ人を助けた件」を取り込んだものと推察します。
とはいえ、古代の関門海峡の水深や潮流速度など、今の関門海峡と同じ環境だったとすると、古代の船で関門海峡を航行するのは、とんでもなく危険だったと思われます。出来れば通りたくない海峡だったでしょう。
「向う側に船で行くのは容易ではない」という意味では、陸続きだったと言えなくもないですね。
豊浦津と穴門豊浦宮
豊浦は、山口県下関市長府とされています。大船団を着けるのであれば、もうちょっと東の木屋川の河口あたりがいいと思うんですが。
穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)は、下関市長府宮ノ内町にある「忌宮神社」がその跡地とされています。
ここに7年間滞在して、政務を行ったといいます。九州を目前にして7年間も何をしていたのでしょう。
想像するに、新羅や熊襲と折衝していたのではないでしょうか。争いを好まない優しい天皇だからです。
しかし、その折衝も無駄と思わせる事件が起こったため、いよいよ九州へ上陸せざるを得なくなります。
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