日本書紀|第十四代 仲哀天皇③|岡縣の熊鰐の協力で筑紫国入り

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筑紫の熊鰐

仲哀8年 己卯(つちのとのう) 199年

正月四日 天皇は筑紫(つくし)に行幸されました。

岡縣主(おかのあがたぬし)の祖の熊鰐(わに)は天皇がいらっしゃると聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(榊)を九尋の船の舳に立て、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、中枝には十握劒(とつかのつるぎ)を掛け、下枝には八尺瓊(やさかに)を掛けて、周芳の沙麼之浦(さばのうら)まで出迎えに参上して、魚塩(なしほ)の地を献上し奏上して、

「穴門から向津野の大濟までを東門とし、名籠屋の大濟を西門とし、没利嶋(もとりしま)・阿閉嶋(あへのしま)を御筥(みはこ)とし、柴嶋(しばしま)を御甂(みなえ)し、逆見海(さかみのうみ)を塩の地と致しましょう。」

と申し上げました。

そして、熊鰐は、天皇の船を先導して、山鹿岬(やまかのさき)を回って、岡浦(をかのうら)に入りました。

大倉主と菟夫羅媛

ところが、門(みなと)まで来ると急に船が進まなくなりました。天皇が、

「朕が聞くところでは、なんじ熊鰐は清い心で参上したとのこと。なのに何故にすすまぬのじゃ。」

とおっしゃいました。熊鰐が、

「御船が進まないのは、わたくしめの罪ではございません。この浦には男女の二神がいらっしゃいます。大倉主(おほくらぬし)とおっしゃる男神と菟夫羅媛(つぶらひめ)とおっしゃる女神です。きっと、この神の御心のせいでしょう。」

とお答えしました。

そこで、天皇は祈祷のために、挾抄者(船頭)の倭国の菟田(うだ)の伊賀彥(いがひこ)に祝(はふり)を命じてお祭りさせました。すると船は進むことができるようになりました。

一方、別の船に乗っておられた皇后は、洞海(くきのうみ)から入られましたが、潮が引いてしまって進まなくなりました。

その時、熊鰐が戻ってきて、洞海から皇后をお迎え奉りました。御船が進まなくなっているのを見て、恐れ畏まり、すぐに魚沼(うをのいけ)と鳥池(とりのいけ)を作り、魚と鳥と集めました。

魚鳥が遊ぶ様子をご覧になるうちに、皇后の苛立ちも徐々におさまりました。そのうち潮が満ちて、岡津にお泊りになりました。

 原 文

八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦、而獻魚鹽地、因以奏言「自穴門至向津野大濟爲東門、以名籠屋大濟爲西門、限沒利嶋・阿閉嶋爲御筥、割柴嶋爲御甂御甂、此云彌那陪、以逆見海爲鹽地。」既而導海路。自山鹿岬之入岡浦。

到水門、御船不得進。則問熊鰐曰「朕聞、汝熊鰐者有明心以參來、何船不進。」熊鰐奏之曰「御船所以不得進者、非臣罪。是浦口有男女二神、男神曰大倉主、女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟。」天皇則禱祈之、以挾杪者倭國菟田人伊賀彥、爲祝令祭、則船得進。皇后別船、自洞海洞、此云久岐入之、潮涸不得進。時熊鰐更還之、自洞奉迎皇后、則見御船不進、惶懼之、忽作魚沼・鳥池、悉聚魚鳥。皇后、看是魚鳥之遊而忿心稍解。及潮滿卽泊于岡津。

 ひとことメモ

岡縣

熊鰐の末裔が、岡県主になりました。岡県の「岡(おか)」は、「遠賀(おんが)」のことを指します。ですから玄界灘に注ぐ遠賀川流域が岡県だったと思われます。

沙麼之浦

山口県防府市の佐波のこと指します。景行天皇が熊襲征伐した時も、九州から神夏磯姫が佐波に迎えが来ました。

でも、仲哀天皇の宮は豊浦(下関市)にあったはず。そこを通り越して防府市まで来たということは、仲哀天皇は防府市に居たということになります。何故に?

豊浦宮跡とされる忌宮神社には、地面から少しだけ顔をのぞかせた「鬼石」があります。その由来というのが、

第14代仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し、豊浦宮に攻め寄せた。

皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿倍高麿、助麿の兄弟まで相次いで打ち死にしたので天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。
賊軍は色を失って退散し、、、

忌宮神社:鬼石案内板より引用

なんと、豊浦宮に新羅の将軍と熊襲が攻め込んできたと書かれています。

想像するに、新羅&熊襲との折衝が不成立となり、熊襲が攻めてきた。一旦は撃退したが、安全のために防府まで退いた。。。ちゃうかな?

魚塩の地

魚塩の地とは、直訳すると「魚を獲る場所と塩を獲る場所」。それらの権利を献上したということになります。簡単にいうと、海域を献上したということになりましょうか。

いやいや、献上したというよりも、それらの島々に海軍を配備して安全を確保したということでしょう。再び熊襲の急襲にあわないよう。

であれば、熊鰐は、結構な実力者ですね。

ではその海域とは、

向津野大濟

東の端が、向津野大濟です。今の長門市の向津具半島に比定されています。あるいは国東半島とも。

名籠屋大濟

西の端が、名籠屋大濟です。今の北九州市戸畑区の牧山あたりでしょうか。このあたりに牧山古墳がありますから、古代においても陸地であったことは間違いないです。

その他の島名

  • 没利嶋(もとりしま)・・・今の六連島。
  • 阿閉嶋(あへのしま)・・・今の藍嶋。

いずれも、御筥(みはこ)として献上されましたが、筥とは何でしょうか。

「筥」とは、竹で編んだ丸い容器のことですが、稲の束という意味もあります。なので、この二島を献上した意味は、穀物あるいは農地を献上したということになるのでしょうかね。

  • 柴嶋(しばしま)・・・今の白島。

ここは御甂(みなえ)として献上されました。御甂は、辞書には「口が大きく浅い容器。小さな盆」とあります。これを献上する意味とは、、、

小さくて、平べったい器といえば、結婚式の三々九度で使う盃を思い付きました。一案としてですが、お酒を献上したということにはならないでしょうか。

逆見海(さかみのうみ)

これは島ではなく海となってます。この海を塩の地として献上しました。

一般的には、北九州市若松区の逆水が逆見海だと言われていますが、ここに塩田のイメージはありません。

下関市の吉見は昔から塩田があったそうです。永田神社がその跡地だそうです。逆見→吉見に地名が変わったのではないでしょうか。

大坂→大阪、スルメ→アタリメ、みたいに、縁起の悪い文字を良い文字に変更するのは、しばしば行われてきたことですから。

山鹿崎

遠賀郡芦屋町に山鹿という大字が残ってます。今の遠賀川河口です。ここを回って遠賀川に入った所が岡浦だったんでしょう。

おそらくは岡湊神社がある所あたりかと思います。

大倉主と菟夫羅媛

男女の神が邪魔をしました。お祭りすることで邪魔は解けました。

各地に残る神武天皇の東征伝承にも、神祭り伝承がたくさん残っています。古代、祭祀と統治は密接に関わっていたとされます。

おそらく、遠賀川下流域にヤマト王権をこころよく思わない豪族があったのでしょう。その豪族が齋祀る神をお祭りしたことで、その豪族と和議を結んだということではないでしょうか。

岡湊から西へ8kmほどの岡垣町の山相に高倉神社があります。こちらに祀られているのが大倉主と菟夫羅媛です。

洞海

洞海は、今の洞海湾ですが、当時の洞海湾は、西側の江川部分の幅が広く、遠賀川河口につながっていました。

ただし、水深は非常に浅かったようです。浅い所だと1.5m程度しかなく、干潮時の航行は不可能だっただろうといわれていますから、神功皇后の船が進めなくなったのも無理のない話ですね。

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