日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑫|吉備下道臣前津屋の反乱

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吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみ さきつやの増長

八月 舎人の吉備弓削部虛空きびのゆげべのおおぞらは、休みを取って故郷に帰りました。吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみ さきつや ある本では、国造吉備臣山くにのみやつこ きびのおみのやまと云う 虚空おおぞらを自分のところに留めて使い、何か月も京都みやこに上らせませんでした。

天皇は、身毛君丈夫むけのきみ ますらをを遣わして呼び戻させました。虚空おおぞらは呼ばれてやってきて、

前津屋みさきつやは、小女おとめを天皇とし、大女おおめは自分だとして、二人を闘わせて、幼女おとめが勝つと 刀を抜いて殺していました。

また、小さな雄鶏を天皇として毛を抜き翼を切り取り、大きな雄鶏を自分として鈴や金で着飾り、これを闘わせて、禿げた鶏が勝つと、これまた刀を抜いて殺していました」

と申し上げました。天皇は、物部の兵士三十人を遣わせて、前津屋みさきつやと併せて同族七十人を誅殺されました。

 原 文

八月 官者吉備弓削部虛空 取急歸家 吉備下道臣前津屋或本云 國造吉備臣山留使虛空 經月不肯聽上京都

天皇 遣身毛君大夫召焉 虛空被召來言「前津屋 以小女爲天皇人・以大女爲己人 競令相鬪 見幼女勝 卽拔刀而殺 復 以小雄鶏呼爲天皇鶏 拔毛剪翼 以大雄鶏呼爲己鶏 著鈴・金距 競令鬪之 見禿鶏勝 亦拔刀而殺 」天皇聞是語 遣物部兵士卅人 誅殺前津屋幷族七十人

 ひとことメモ

吉備氏

吉備氏は岡山平野全域を支配していた首長で、孝霊天皇の御代に、彦五十狭芹彦命とともに、この地域を平定した稚武彦命わかたけひこのみことの子孫といわれています。

吉備国は、ヤマトの大王との姻戚関係、中国山地の鉄、瀬戸内海の海運、瀬戸内沿岸最大の平野、などを背景に、勢力を伸ばしていき、天皇陵に匹敵する規模の古墳が築造されていたことからも、この頃には大王家と肩を並べるぐらいの勢力になっていたのでしょう。

ですので、吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみ さきつやは増長して「大王家なんて恐れるに足らん!」と思っていたのでしょう。

下道臣

応神天皇の御代のこと。

吉備御友別の妹兄媛えひめは応神天皇の妃でした。兄媛えひめが親孝行のために里帰りをしたので、応神天皇が様子伺いに吉備国にお出ましになられました。その時の吉備御友別一家の饗応に感激した天皇は、吉備御友別の子供たちに吉備国を分割して与えました。

その一つ川嶋縣を与えられた稲速別いなはやわけの後裔が下道臣です。

舎人を返さない

吉備弓削部虛空きびのゆげべのおおぞらは天皇の近くで様々な仕事をこなす舎人であり、弓削部でもあります。弓削部は武器を作る部民を司る氏族です。

この人を、朝廷に返さずに長く留め置いたという記述は、朝廷と吉備氏の関係が良好でないことを表しているのだと思います。

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