日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑬|妻を天皇にとられた吉備田狭が新羅へ亡命

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天皇、臣下の妻を横取りする

この年、吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみ たさが、御殿の近くに座って、盛んに妻の稚媛わかひめのことを友人に褒めて、

「天下の麗人でも、我が妻には及ぶまい。頭がよくて上品で、いい女の要素がすべて備わっている。また、活き活きとして穏やかで、化粧も香水も必要ない。世間広しと言えど、類まれな絶世の美女だ」

と言ったのを、天皇は遠くの方でお聞きになり、心の中で喜んでおられました。

天皇は、稚媛わかひめ女御みめにしようと思い、田狭たさに頼み込んで任那みまな国司くにのみこともちとして赴任してもらい、間もなく稚媛わかひめをお召しになられました。

田狭臣は、稚媛わかひめを娶とり、兄君えきみ弟君おときみを生んでいました。

ある本では、「田狭臣の妻の名は毛媛けひめといい、葛城襲津彦かづらきのそつひこの子の玉田宿禰たまたのすくねの娘で、天皇は、その美しさをお聞きになり、夫を殺してお召しになった」と伝わります。

 原 文

是歲 吉備上道臣田狹 侍於殿側 盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人 莫若吾婦 茂矣綽矣 諸好備矣 曄矣温矣 種相足矣 鉛花弗御 蘭澤無加 曠世罕儔 當時獨秀者也 」天皇 傾耳遙聽而心悅焉 便欲自求稚媛爲女御 拜田狹爲任那國司 俄而 天皇幸稚媛 田狹臣 娶稚媛而生兄君・弟君 別本云「田狹臣婦 名毛媛者 葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也 天皇 聞體貌閑麗 殺夫 自幸焉 」

 ひとことメモ

吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみ たさ

吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみ たさは、前述の吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみ さきつやと同じく大王家に匹敵する勢力を誇る吉備氏一族です。

応神天皇の御代のこと。

吉備御友別の妹兄媛えひめは応神天皇の妃でした。兄媛えひめが親孝行のために里帰りをしたので、応神天皇が様子伺いに吉備国にお出ましになられました。その時の吉備御友別一家の饗応に感激した天皇は、吉備御友別の子供たちに吉備国を分割して与えました。

その一つ上道縣を与えられた仲彦なかひこの後裔が上道臣です。

ですから、吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみ たさは上道縣、今の岡山市東部を支配していた首長だったと思われます。

稚媛わかひめ

ところが、雄略天皇紀の前半にある系譜紹介によると、稚媛わかひめは吉備上道臣の娘とあります。上道臣の娘が、同じ上道臣の田狭の妻だったということになります。つまり、田狭は養子だったのかもしれないですね。田狭という名も、肩身が狭そうな名前ですし。

ただし、別伝として吉備窪屋臣きびのくぼやのおみの娘ともありますから、はっきりとは言えませんが。。。

養子かどうかは別にしても、吉備上道臣の娘であれば、大王家と吉備氏の関係強化のためにも妃にしたかったという考え方ができそうですが、横取りなんかしたら、関係が強化されるどころか、、と思いますが。。。

毛媛???

しかーし。

ある書では、葛城襲津彦の子の玉田宿禰の娘で毛媛と伝わる とあります。名前はともかくとして葛城氏の姫であることは興味深いです。しかも玉田宿禰となれば葛城宗家ですから。

結構重要なことをサラッと書いてますね。

そうであるならば、雄略天皇が田狭の妻を横取りした真意は違ってきますよ。

葛城宗家は雄略天皇によって滅ぼされましたから。葛城氏と雄略天皇は因縁の仲なのです。

西の雄である吉備氏が、妻として葛城宗家出身の姫を迎えている。
宗家は滅んだが、葛城一族は未だ健在だ。
吉備と葛城が手を結んだら、、、どうなる?

雄略天皇の危機管理センサーが敏感に反応したのではないでしょうか。

美人だからという理由だけで、臣下の妻を横取りするというようなカッコ悪いことをするとは思えないのです。いや、雄略さんはあり得るかも。。。

 

新羅討伐

田狭臣は、任地で、天皇が妻をお召しになったと聞き、助けを求めて新羅に入ろうと思いました。この時、新羅と中国なかつくに(日本)とは不仲だったからです。

天皇は、田狭臣の子の弟君おときみ吉備海部直赤尾きびのあまのあたい あかおとに詔して、

「お前ら、新羅を討て」

とおっしゃいました。

この時、西漢才伎歓因知利かふちのあやの てひと かんいんちりがお側におり、進み出て、

「私よりも優れた者が韓国からのくににはたくさんおります。お召しになられて使われたらいかがでしょう」

と申し上げました。

「それならば、歓因知利かんいんちり弟君おときみらに副えて百済に遣わし、勅書を下して優れた者を献上させよ」

とおっしゃいました。

弟君おときみは命を受け、軍を率いて百済に渡り、それから新羅に入りました。新羅の国神くにつがみが老女に姿を変えて、突然、道に現れました。弟君おときみが新羅まで遠いか近いかを尋ねると、老女は、

「もう一日行けばつくでしょう」

と答えました。弟君おときみは、独断で遠いと判断して討たずに引き返しました。

そして、百済が献上した今来いまき才伎てひと大嶋おおしまの中に集めて、風待ちにかこつけて、そこに留まって数か月を過ごしました。

 原 文

田狹 既之任所 聞天皇之幸其婦 思欲求援而入新羅 于時 新羅不事中國 天皇 詔田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾曰「汝 宜往罰新羅 」於是 西漢才伎歡因知利在側 乃進而奏曰「巧於奴者 多在韓國 可召而使 」天皇詔群臣曰「然則宜以歡因知利 副弟君等 取道於百濟 幷下勅書 令獻巧者 」於是弟君 銜命率衆 行到百濟而入其國 國神化爲老女 忽然逢路 弟君就訪國之遠近 老女報言「復行一日而後可到 」弟君 自思路遠 不伐而還 集聚百濟所貢今來才伎於大嶋中 託稱候風 淹留數月

 ひとことメモ

吉備海部直赤尾きびのあまのあたい あかお

吉備氏の反乱に、その鎮圧軍として吉備氏を派遣するのかいなと思ってしまいますが、吉備海部直きびのあまのあたいは、吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみ たさあるいは吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみ さきつやとは出自が全く違っていて、倭国造から分かれた氏族で、吉備国の沿岸部の海人族を束ねる首長だそうです。

弟君

反乱を起こした吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみ たさの子供を、その討伐軍の将軍にするとは。雄略天皇らしいやり方ですな。

相棒の赤尾は「隙を見て弟君を殺せ」と密命を帯びていたかも知れませんね。あっ、これは根拠のない想像でした。

天皇の命令は?

この両名に歓因知利を副えて、天皇が命令した内容は、

  1. 新羅を討つこと
  2. 優れた技術者を連れて帰ってくること

です。弟君は、その命令の両方を反故にしたということになりますから、これは立派な謀叛です。

技術の輸入

我々の感覚では、戦争をしに行く将軍に、技術者を連れてこいという命令も同時に下すのはなんか違うような気がしますよね。

でも当時は、大陸の先進技術を取り入れることは、戦争に勝つことと同じぐらい大切なことだったのではないでしょうか。国体の維持にはそれが不可欠だったと。

そう考えた時、現代でもそうかもしれないな、と思わせる国があります。どことは言いませんが、核兵器の開発を急務とする国にとっては、技術者の輸入は戦争に等しいですから。。。

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