日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑭|田狭と弟君の企み。/ 弟君が妻に殺される。

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田狭臣たさのおみ弟君おときみ

任那国司の田狭臣たさのおみは、子の弟君おときみが新羅を討たずに帰国することを喜んで、密かに百済に使いを出して、

「お前の首が何で安全で、人を討つようなことが出来るのだ。(天皇の詔があるからだろう?)聞くところによると、天皇は俺の妻を娶って、遂には子がいるというではないか。稚媛わかひめが産んだ子は前述の通り 

今恐れるべきは、お前の身に及ぶであろう災いが、すぐそこまで来ているということだ。(天皇の子ではなくて)我が子であるお前は、百済に留まり、日本やまとと接触するな。私も任那に留まって、日本と接触しない」

と言いました。

しかし、

弟君おときみの妻の樟媛くすひめは、国家を思う情が深く、君臣の義を重んじました。忠義の心は、太陽よりも明るく、青松よりもまっすぐでした。なので、夫の謀反を憎んで、夫を殺して遺体を寝室に隠し埋めて海部直赤尾あまのあたい あかおと共に百済の手末才伎たなすえのてひと(手技術者)を連れて、大嶋におりました。

天皇は、弟君おときみがいなくなってしまったことお聞きになられて、日鷹吉士たかのきし堅磐かたしわ固安銭こあんせんを遣わして復命させました。そして、才伎てひとらを、倭国の吾礪あと廣津邑ひろきつのむらに住まわせました。

ところが、病死するものが多く出ました。そこで、大伴大連室屋に詔し、東漢直やまとのあやのあたひつかに命じて、新漢いまきのあやの陶部すえつくりべ高貴こうてい鞍部くらつくりべ堅貴けんけい画部えかきべ因斯羅我いんしらが錦部にしきこりべ定安那錦じょうあんなこん訳語卯安那おさ ぼうあんならを、上桃原かみつももはら下桃原しもつももはら眞神原まかみのはらの三か所に移し住まわせました。ある本では、吉備臣弟君は百済から帰国して漢手人部あやのてひとべ衣縫部きぬぬいべ宍人部ししとべを献上したと伝わります

 原 文

任那國司田狹臣 乃喜弟君不伐而還 密使人於百濟 戒弟君曰「汝之領項 有何窂錮而伐人乎 傳聞 天皇幸吾婦 遂有兒息 兒息已見上文 今恐 禍及於身 可蹻足待 吾兒汝者 跨據百濟 勿使通於日本 吾者據有任那 亦勿通於日本 」

弟君之婦樟媛 國家情深 君臣義切 忠踰白日 節冠靑松 惡斯謀叛 盜殺其夫 隱埋室內 乃與海部直赤尾將百濟所獻手末才伎 在於大嶋

天皇 聞弟君不在 遣日鷹吉士堅磐固安錢 堅磐 此云柯陀之波 使共復命 遂卽安置於倭國吾礪廣津 廣津 此云比盧岐頭 邑 而病死者衆 由是 天皇詔大伴大連室屋 命東漢直掬 以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等 遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所 或本云「吉備臣弟君 還自百濟 獻漢手人部・衣縫部・宍人部 」

 ひとことメモ

弟君は生きていた?

君臣の義を重んじる、妻の樟媛くすひめが、「夫である弟君を殺して埋めた」とありますが、そのあとで、「天皇が弟君がいなくなったのを聞いて」ともあります。

「弟君が死んだと聞いて」ではないのです。

さらには、最後には、別伝として「弟君は百済から帰還して、技術者たちを献上した」と記されています。

おそらく、樟媛くすひめは殺してないのでしょう。殺したことにして隠したんじゃないかと思います。

倭国の吾礪あと廣津邑ひろきつのむら

倭国の吾礪あと廣津邑ひろきつのむらとはどこでしょうか。残念ながら不明です。

とはいえ、いくつかの説があります。

倭国を日本と捉えたら、阿斗あと阿戸あととも書く場所が河内国の渋川郡にあります。今の八尾市跡部あとべから植松うえまつ町にかけての地域です。ここは、古代大和川(現:長瀬川)と、古代平野川(現在は流路が変わってしまったのでなし)の分流地点ですから、廣津邑ひろきつのむらと表現できるような大きな港があった可能性もあります。

倭国を大和国(奈良県)と捉えたら、大和国城下郡阿刀あと村に比定されることも。阿刀あと村の隣が波登里はとり村。まさに機織り集団が居住していた可能性を感じさせる地名がありました。

阿刀あと村も波登里はとり村も今はありません。

飛鳥の三か所

上桃原かみつももはら下桃原しもつももはら眞神原まかみのはらに引っ越しさせたとあります。それぞれの場所は、、、

  • 上桃原かみつももはらは、石舞台古墳のある島庄あたり
  • 下桃原しもつももはらは、橘寺のある橘あたり
  • 眞神原まかみのはらは、飛鳥宮跡のある飛鳥あたり

だそうですよ。

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