香賜が、采女を姧した
雄略9年 乙巳 465
二月一日 凡河內直香賜と采女を胸方神に遣わした。香賜は、神域に入り、まさに神事が行われようとした時に、その采女を姧しました。天皇はこれをお聞きになり、
「神をお祀りして、福を祈るときは、慎まねばならん」
とおっしゃられて、難波日鷹吉士を遣わして、誅殺を命じました。
しかし、香賜は逃げて居なくなりました。そこで、天皇は弓削連豊穂を遣わして、あらゆる国・群・縣を探させて、とうとう三嶋郡藍原で捕らえて斬りました。
原 文
九年春二月甲子朔 遣凡河內直香賜與采女 祠胸方神 香賜 既至壇所 香賜 此云舸拕夫 及將行事 姧其采女 天皇聞之曰「詞神祈福 可不愼歟 」乃遣難波日鷹吉士將誅之 時香賜退逃亡不在
天皇復遣弓削連豐穗 普求國郡縣 遂於三嶋郡藍原 執而斬焉 |
ひとことメモ
胸方神
胸方神は、今の宗像神です。宗像三女神を祀る神社ですね。
宗像三女神は、北九州から対馬を経て朝鮮半島への航海安全を司る神で、海人族である宗像氏が奉斎する神です。
神が登場すると、それはその神を齋祀る氏族の象徴であると考えます。
天皇が胸方神に使者を派遣したというとは、宗像氏を朝廷に取り込もうとした、あるいは、協力関係を築こうとしたということだと思われます。
神前で釆女を犯す
これは、神への冒涜ですから、言い換えると何らかの出来事で、朝廷と宗像氏との関係が悪化する事態を招いたということでしょう。
と同時に、この後に行われる新羅征伐の結果を暗示しているようにも思えます。
三嶋郡藍原
三嶋郡藍原は、今の高槻市から茨木市にかけての地域と思われます。
新羅征伐の詔
三月 天皇は自ら新羅を征伐しようと思われた。神が天皇を戒めて
「行ってはいけない」
と仰せられたので、天皇は行かれませんでした。
そこで、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに、
「新羅は、元来西の国であるが、代々、臣として参内を怠ることはなかったし、貢物を献上するという職務を全うしてきた。
ところが朕が天下に王となると、対馬の外にまで出てきては、足跡を匝羅の表に隠して、高麗の貢を阻止し、百済の城を呑み込もうとしている。ましてや参上もせず、貢物を納めることもない。
狼の子は、満腹だと散り、飢えると寄ってくる。お前ら4人の卿に大将を任せる。皇軍をもってして征伐し、天罰を慎んで行え。」
と詔して、新羅征伐を命じました。
原 文
三月 天皇欲親伐新羅 神戒天皇曰「無往也 」天皇由是 不果行 乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談 連談 此云箇陀利・小鹿火宿禰等曰「新羅 自居西土 累葉稱臣 朝聘無違 貢職允濟 逮乎朕之王天下 投身對馬之外 竄跡匝羅之表 阻高麗之貢 呑百濟之城 況復朝聘既闕 貢職莫脩 狼子野心 飽飛 飢附 以汝四卿 拜爲大將 宜以王師薄伐 天罰龔行 」 |
ひとことメモ
神が、行ってはならないと、、、
神は、「天皇は新羅に行ってはならない」と言いました。これも、新羅征伐の結果を暗示しているようです。
四人の将軍
紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰の4人が将軍として派遣されました。かなり大規模な軍隊が編成されたようですね。
紀小弓宿禰は、武内宿禰の子で紀氏の祖である紀角宿禰の孫。紀氏は生駒郡平群町を本拠とする氏族です。
今回の軍隊では「大将軍」の地位だったと記されています。
大将軍のポストがあったということは、後の例から見て「前将軍」「中将軍」「後将軍」のポストもあったと思われます。
蘇我韓子宿禰は、武内宿禰の子で蘇我氏の祖である蘇我石川宿禰の孫。本貫地は大和国高市郡曽我邑で、今の橿原市の北西部です。韓子の孫が、蘇我稲目です。
今回の軍隊では「前将軍」の地位だと思われます。
大伴談連は、大伴室屋大連の子とも弟とも。大伴氏は天孫降臨以来ずっと戦闘集団の久米氏を率いて皇軍を指揮してきた軍事氏族でした。今回も久米氏を率いて行ったのでしょう。
今回の軍隊では「中将軍」の地位だと思われます。
小鹿火宿禰は、武内宿禰の子で紀氏の祖である紀角宿禰の孫で都怒国造。ですから、紀小弓宿禰の紀臣とは同族です。
今回の軍隊では「後将軍」の地位だと思われます。
4人中3人が、武内宿禰の後裔ということになりますね。
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