日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑱|日本人同士の不和 / 紀小弓宿禰の墓

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倭人同志の不和

五月 紀大磐宿禰きのおおいわのすくねが父の死を知り、新羅に渡り、小鹿火宿禰おかひのすくねの所管する兵馬や船官や諸小官を取り上げて、自分の配下とした。その為、小鹿火宿禰おかひのすくねは、大磐宿禰おいわのすくねを恨みました。そこで韓子宿禰からこのすくねに、

大磐宿禰おおいわのすくねが私に『俺は、韓子宿禰の配下も奪ってやるぜ』と言ってましたよ。気を付けてください」

と讒訴したので、韓子宿禰と大磐宿禰とに隙間が出来ました。

百済王は、日本の諸将がちょっとしたことで仲が悪くなったことを聞き、韓子宿禰らに遣いを出して

「国境をお見せしましょう。どうか、お出ましください」

と誘い出しました。

韓子宿禰らは轡を並べて出掛けましたが、河に到着し、大磐宿禰おおいわのすくねが馬に川の水を飲ませました。

この時、韓子宿禰が後から近づいて、大磐宿禰を射ましたが鞍に当たりました。大磐宿禰は驚いて振り返り、韓子宿禰を射落とすと、川の流れに落ちて死にました。

その為、百済王の宮に至ることなく引き返しました。

 原 文

夏五月 紀大磐宿禰 聞父既薨 乃向新羅 執小鹿火宿禰所掌兵馬・船官及諸小官 專用威命 於是 小鹿火宿禰 深怨乎大磐宿禰 乃詐告於韓子宿禰曰「大磐宿禰謂僕曰 我當復執韓子宿禰所掌之官不久也 願固守之 」由是 韓子宿禰與大磐宿禰有隙

於是 百濟王 聞日本諸將 緣小事有隙 乃使人於韓子宿禰等曰「欲觀國堺 請 垂降臨 」是以 韓子宿禰等並轡而往 及至於河 大磐宿禰飲馬於河 是時 韓子宿禰 從後而射大磐宿禰鞍几後橋 大磐宿禰 愕然反視 射墮韓子宿禰 於中流而死 是三臣 由前相競 行亂於道 不及百濟王宮而却還矣

 ひとことメモ

戦に負けた後の将軍なんて、こんなもんなのでしょう。

死んだ大将軍の子紀大磐宿禰きのおおいわのすくねがやってきて、小鹿火宿禰おかひのすくねに嫌がらせをしました。

紀大磐宿禰きのおおいわのすくねは紀臣の首長で、小鹿火宿禰おかひのすくねは紀臣から枝分かれした都怒国造です。紀大磐宿禰きのおおいわのすくねは、自分の方が主筋であると思っていたでしょう。

ですから「なぜ父を死なせた!死ぬならお前が先だろう」という思いがあったのではないでしょうか。だから嫌がらせをしたのだと勝手に想像します。

くやしい小鹿火宿禰おかひのすくねは、蘇我韓子宿禰に讒言したわけですね。蘇我臣と紀臣は格としては対等でしょうから。

結局、蘇我韓子宿禰が死にました。これでとうとう、4将軍の中で生き残ったのは小鹿火宿禰おかひのすくねだけになってしまいました。

 

紀小弓宿禰きのおゆみのすくねの墓

采女大海うねめ おおあまは、小弓宿禰の喪に服するために帰国し、大伴室屋大連おおとものむろやのおおむらじに相談して

「私めは、どこに葬ったらよいのかわかりません。どこかいい場所を占ってもらえませんでしょうか」

と言いました。

大連はすぐに奏上したところ、天皇は大連に詔して、

「大将軍である小弓宿禰は、龍の如く登り虎の如く睨み、見渡す限りを治めた。逆賊は討ち、四海を平定した。身を万里に労して三韓に命を落とした。よってここに、哀れみ謹んで視葬者はふりのつかさを遣わす。また、そなた大伴卿おおとものまえつきみ紀卿きのまえつきみは同じ国で近隣だから、往来もあろう」

とおっしゃいました。そこで大連は詔を奉り、土師連小鳥はじのむらじ おとりに命じて、田身輪邑たみわのむらに墓を造らせました。そこで、大海おおあまは大変喜んで、黙っていられず、韓奴からのやつこの、むろ兄麻呂えまろ弟麻呂おとまろ御倉みくら小倉おくらはりの六人を大連に送りました。これが、吉備上道きびのかみつみち蚊嶋田邑かしまたのむら家人部やかひとべです。

 原 文

於是 采女大海 從小弓宿禰喪 到來日本 遂憂諮於大伴室屋大連曰「妾 不知葬所 願占良地 」大連卽爲奏之 天皇勅大連曰「大將軍紀小弓宿禰 龍驤虎視 旁眺八維 掩討逆節 折衝四海 然則 身勞萬里命墜三韓 宜致哀矜充視葬者 又汝大伴卿與紀卿等 同國近隣之人 由來尚矣 」於是 大連奉勅 使土師連小鳥 作冢墓於田身輪邑而葬之也 由是 大海欣悅 不能自默 以韓奴室・兄麻呂・弟麻呂・御倉・小倉・針六口送大連 吉備上道蚊嶋田邑家人部是也

 ひとことメモ

田身輪邑たみわのむら

田身輪邑たみわのむらは、大阪府泉南郡岬町淡輪たんのわ。このあたりに紀氏の所領があったと伝わります。また、淡輪にある西陵古墳さいりょうこふんが「田身輪邑の冢墓」であるとする言い伝えもあります。

この地が大伴大連と紀臣の所領の境目あたりだったということになりますね。

家人部やかひとべ

家人部やかひとべとは、奴隷のような扱いで働かせる人々のこと。その家人部やかひとべとして6人の韓奴を大伴室屋に献上したわけですが、韓奴とは朝鮮半島から連れてきた捕虜のことです。

皇軍は負けましたが、捕虜は連れて帰ってきたということですね。

吉備上道の蚊嶋田邑かしまたのむら

蚊嶋田邑かしまたのむらは、吉備上道にあったわけですよね。吉備上道は、岡山市の東部です。そのあたりで「カシマタ」を探してみると、

  • 岡山市の宿村に「鹿嶋田」があったらしいです。宿村は、現在の岡山市東区古都宿。
  • また、ケシ山(現:芥子山)は蚊島山が訛ったものだとか。
  • 大多羅の布施神社の鎮座地を蚊島と呼んでいたとか。
  • 蚊島綱留神社という神社があったとか。

いずれにしても、今の岡山県東区の芥子山周辺域だったのでしょう。

角臣の始まり

別に、小鹿火宿禰おかひのすくねは、紀小弓宿禰きのおゆみのすくねの葬儀のためにやって来ましたが、ひとりで角国つののくにに留まっておりました。倭子連やまとこのむらじ この連のうじは判らない を使者として、大伴大連に八咫鏡を献上し、

「私は、紀卿きのまへつきみと一緒には天皇にお仕えすることは堪えられません。ですので、角国に留まらせてください」

と願い出ました。この為、大連は天皇に奏上し角国に留まらせることになりました。

角臣ののおみら等が最初に角国つのくにに住み、名を角臣ののおみらというのはこれが始まりです。

 原 文

別小鹿火宿禰 從紀小弓宿禰喪來 時獨留角國 使倭子連 連 未詳何姓 人奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰「僕 不堪共紀卿奉事天朝 故 請留住角國 」是以 大連爲奏於天皇使留居于角國 是 角臣等初居角國而名角臣 自此始也

 ひとことメモ

角国

角国つののくには周防国都濃郡で、今の山口県周南市と下松市のあたりです。

小鹿火宿禰おかひのすくねは、紀大磐宿禰きのおおいわのすくねから嫌がらせを受けましたので、ムカついているのです。だから、朝廷で紀臣と一緒に仕えたくないと言っているという設定ですね。

本当にそんな理由で?と思いますよね。

角国に留まった本当の理由

もっと戦略的な理由があるのでは?と想像をめぐらした時、この地は、瀬戸内海のハブ港だったのではないかという想像に行き当たりました。

瀬戸内海を航行してきた荷駄船が、角国の港に立ち寄り、下関から関門海峡を通って北九州方面へ向かう船と、瀬戸内海を南下して南九州へ向かう船に、荷物を積み込む。

小鹿火宿禰おかひのすくねは、そんな物流の要衝を抑えたかったのではなかったか、そしてそれは紀氏の一族として、紀氏の発展のために。。。

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